東京都 田上裕也さん(20代・大学生)が危うく命を落としかけた話
あの夜、後ろに乗せた女性の顔を、僕は今も、どうしても思い出せません。
一目惚れしたはずなのに、です。
あれは、僕が高校2年生の夏のことでした。
あと1週間ほどで夏休みになろうかという頃、バイト代と親からの少しの援助で、初めて中型のバイクを買ったんです。
中古でしたが、もう嬉しくて嬉しくて。
学校にいる時間と寝る時間以外は、ほとんどバイクに乗っているか、磨いているかのどちらかでした。
ガソリン代を稼ぐために、週2日ほど、夜のファミレスでアルバイトをしていました。
これは、その帰り道での出来事です。
その日も、スピード違反の取り締まりが多い大通りは避けて、いつものルートで自宅へ向かっていました。
梅雨明けして間もない頃で、気持ちよく風を切って、一方通行の道を抜けます。
最初の信号を右に曲がると、1キロ以上続く、ほぼ直線の道路に出るんです。
道路の右側は住宅街。 左側には、高さ80センチほどの古びた石垣が続いていて、一段高いところに歩道があって、その向こうは、都内でも有数の大規模な霊園でした。
石垣と植栽のせいで、中の様子はうかがえません。 それでも地元の人間にとっては、特に意識することもない、ただの生活道路でした。
霊園のど真ん中を突っ切る、両サイドが墓地だらけの道も、実はあるんです。 でも僕は少々怖がりなので、夜は右側が住宅街になっているこの道を通るのが、いつもの習慣でした。
右折してその道に入ってすぐでした。
石垣にもたれかかるように座っていた女の人が、まるでタクシーでも止めるみたいに、僕に向かって手を上げたんです。
場所が場所だっただけに、一瞬ドキッとしました。
でも――はっきりとした目鼻立ちの、見たこともないような美人でした。
正直、完全に僕の好みでした。
服装も、はっきり覚えています。
ジーンズに、少しかかとの高い薄黄色の靴。 大きく開いた襟元に、白いフリルの付いた長袖のシャツ。
慌ててバイクを止めると、女性がスーッと近づいてきて、こう言ったんです。
「すみません。『向こうの入り口』まで、乗せて行ってくれませんか……?」
『向こうの入り口』という言い回しに、少し違和感を覚えました。
でも、あまりに可愛らしいその人を、僕は断ることができませんでした。
「え? 向こうの……この道の突き当たりの信号まででいい……ですか?」
今考えれば、あんな時間に、あんな場所で、見知らぬ女性を迷いもなくバイクの後ろに乗せるなんて、僕にしてみればあり得ないことです。
でも、あの時は、彼女があまりにも綺麗で、可愛くて、完全に僕の好みで――
たぶん、あの一瞬で、一目惚れしてしまっていたんだと思います。
彼女の分のヘルメットはありません。
でも、あの道の先までなら、たぶん2分もかからない。
悪いことだとはわかっていました。
それでも、高校2年生男子の自制心は、あっけなく崩れました。
「ほんの少しだ」
そう魔が差して、僕は見知らぬ彼女を、ノーヘルのまま、後部座席に乗せてしまいました。
彼女が後ろに乗った瞬間、なびく髪から、香水のような、それとも線香のような――何とも言えない香りが、ヘルメットの隙間から入ってきました。
「大丈夫……ですか? つかまってて……ください……ね」
初対面の、少し年上らしい女性への微妙な距離感からか、ぎこちない声しか出ませんでした。
彼女は「……はい……」と、消え入りそうな声で答えて。
あろうことか、僕のウエストに、すーっと両腕を回してきたんです。
頬と胸の感触が、背中全体に広がりました。
「バイク……買ってヨカッターッ!!!!!」
心の中で、叫びました。
早まる鼓動が、彼女に伝わらないことを祈りながら、バイクを発進させようとした、その時です。
彼女が突然、右手を僕の右手の上に重ねました。
左手を、僕の左の手のひらの下から、滑り込ませてきました。
驚いて肩越しに振り返ろうとしましたが、彼女は顔を僕の背中に押しつけていて、表情は見えません。
そして――
ものすごい力で、右手のアクセルを全開にしました。
クラッチを握っていた僕の左手を、こじ開けてきたのです。
「よせ! やめろ!! そんなことしたらバイクごとひっくり返るぞ!!」
背中越しに、彼女の声が聞こえました。
「ケケケケッ!」
不気味な笑い声でした。
彼女を乗せたことを、僕は心の底から後悔しました。
次の瞬間。
彼女の左手が、クラッチを握る僕の左手をあっさりと弾きました。
勢いよく前輪が跳ね上がったバイクは――
地面に叩きつけられた僕の上に、そのまま降ってきました。
気がついた時には、病院のベッドの上にいました。
隣で、母が警察官と何か話し合っていたようです。
でも、僕は全身の痛みで、体を起こすどころか、話すこともできませんでした。
数日後、ようやく会話ができるようになって、事故の状況を伝えました。
でも、両親も、ひき逃げの可能性を疑っていた警察も、僕の話をまったく信じてくれませんでした。
結局、「初心者ライダーにありがちな、クラッチ操作のミスによる自損事故」という結論に落ち着いたんです。
そりゃそうです。
現場でひっくり返っていたのは、僕とバイクだけだったんですから。
でも、一番不思議なのは、一目惚れまでしたはずの、彼女の顔なんです。
まったく、思い出せません。
綺麗で可愛くて、好みだったはずのその顔が――
いくら考えても、一切、浮かんでこないんです。
ただ、一つだけ、思い出したことがあります。
バイクがひっくり返る直前、背中で彼女はこう言いました。
「ケケケケッ! 向こうの入り口は、そっちじゃないよ!」
その言葉と声だけは、今でも耳に残っています。
『向こうの入り口』。
それは、向こうの世界――あの世の入り口という意味だったのかもしれません。
あの道ですか?
あれ以来、二度と通っていません。


