東京都 河本将暉さん(40代・会社員)の恐怖体験談
これは3年前の秋、趣味の登山でS県とG県の県境にある山を登っていたときの話です。 一人で山に籠るあの静かな時間が、私は昔から好きでした。 でも、あの日山小屋で過ごした一晩だけは、いまだにどう説明していいのか分かりません。
紅葉の季節も過ぎ、本格的な冬を迎えるこの時期は、他の登山者もぐっと減ります。山を独り占めできるこの静けさが、一人登山を好む私にとっては、何より贅沢な時間でした。
何日も前から天気予報を何度も確認し、ちょっとした変化も見逃さないようにしていました。ところが、いざ当日山を登り始めると、中腹を過ぎたあたりで、予報に反して雪が降り出したんです。
山の天気は変わりやすいものです。予報通りにいかないことくらい、百も承知でした。
スノースパイクを使って頂上を目指すことも考えました。でも、その時の私は完全な冬装備ではありません。本格的に雪が降り積もれば厄介なことになる。そう考え、目的にしていた頂上付近の山小屋まであと少しというところで、雪が強くなる前に下山することに決めました。
ところが、引き返そうとしたその矢先――
薄っすらと積もった雪に足を滑らせ、私は足をくじいてしまったんです。
痛む足をかばいながら下山するより、もう少し登った先の山小屋で休憩し、体勢を立て直して、明日の朝下山しよう。そう考えました。
何度も登り慣れた山です。その時点では、特に不安もありませんでした。持ってきた水も食料も十分ありますし、山小屋には万が一のための備蓄もあります。
痛む足をかばいながら1時間ほどかけて、ようやく山小屋にたどり着いたときには、思ったよりも体力を消耗していました。
「思ったより時間がかかったな。片足をかばいながら歩くというのは、こんなにも体力を奪われるのか」
長年の登山経験でも初めての体験に、また一つ勉強になったなと思いました。
小屋の中で靴を脱ぎ、くじいた足を確認します。幸い、大きく腫れてもいませんし、強い痛みもありません。明日の朝には問題なく下山できるだろう。そう安心しました。
冷静な判断ができた自分に、少し満足していました。リュックからシュラフを取り出し、中に潜り込んで、持ってきた小説でも読みながら、のんびり過ごそう――そんなことを考えながら、リュックの中を探っていたときです。
静まり返っていた山小屋の静寂を破って、
「ドンドン!!」
外から小屋を叩く音がしました。
突然のことに驚いて、それがどの方向から聞こえたのか、ドアをノックする音だと気づくまで、少し時間がかかりました。
高鳴る心臓が収まらないまま、私はドアのほうに向かって声をかけました。
「どうぞ」
反応を待ちましたが、誰かが入ってくる様子もありません。返事もない。
すると、ややあってまた――
「ドンドンドン!!」
先程より強く、ドアを叩く音がしました。
私の声が聞こえなかったのかと訝しみ、今度はより大きな声で言いました。
「どうぞ! 入ってください!」
それでも、ノックの主は入ってこようとしません。
雪の降り初めと同時に風も出てきていたので、多少声が届きにくかったのかもしれません。でも、全く聞こえないということはないはずです。
私は仕方なくシュラフから這い出て、痛む足をかばいながら靴を履き、ドアに近づいて、もう一度言いました。
「どうぞ!! 入ってください!!」
それでも何の反応もないことに、私は少し苛立ちを覚えました。
冬場、雪深いこのあたりの山小屋のドアは、外に積もった雪で出入りできなくならないよう、内側に向かって開くようになっています。
ヨタヨタとドアまで歩いていった私は、ドアノブに手をかけ、力を込めて一気に引きました。
待ち構えていたかのように吹き込んできた冷気と、顔を刺すような氷の礫。その向こうに広がった光景に、私はまず、このわずかな時間で降り積もった雪の深さに驚かされました。
小屋に入ってから、まだ10分ほどしか経っていません。それなのに、あたりはヒザ下ほどの雪が積もり、一面の銀世界になっていたんです。
ドアを閉めることも忘れ、しばらく呆然と立ち尽くしていました。でも、痛い足を引きずってまでドアを開けに来た目的を思い出し、私はすぐに正気を取り戻しました。
ドアを叩いた人物の姿を探しましたが、周囲には誰もいません。
ただ――
間違いなく誰かがそこにいた証拠に、雪の中に足跡が1つだけ、ドアに向かって左右対にくっきりと付いていました。
でも、それは絶対にありえないことでした。
足跡からは、地面の土や砂利が、そのまま覗いていたんです。
つまり、雪が積もる前から、誰かがずっとそこに立っていないと、このような足跡は付かないはずなんです。
さらに不可解なのは、この足跡に続く足跡が、どこにもないことでした。
来た足跡も、帰った足跡も、何一つ残っていません。
ただ、左右一対の足跡だけが、そこにポツンと残されている。
その状況に、ゾクッと怖気が立ちました。外から吹き込む冷気のせいだけではなかったはずです。
私はすぐにドアを閉め、足の痛みも忘れて走り、シュラフの中に潜り込みました。
シュラフの中で最初に頭に浮かんだのは、もしもう一度、ノックの音が聞こえたらどうするかということでした。
次に浮かんだのは、あの音がドアから小屋の周りをぐるりと一周して、あるいは次第に数を増やしていって、あるいは屋根の上から――
ありもしない妄想が、私の中でどんどん膨らんでいきました。
自分の脳が勝手に作り出した恐怖に苛まれながら、いつの間にか、私はシュラフの中で眠りに落ちていました。
朝日が小屋の中を明るく照らす頃、シュラフの中の熱気で汗だくになって、私は目を覚ましました。
シュラフから這い出る前に、また妄想が始まります。
「あれは夢だったのか……いや、絶対に夢じゃない。もしあのノックの主が、この小屋の中にいたら。もし小屋の中を埋め尽くすほど大勢いたら――」
シュラフの隙間から片目でそっと小屋の中を見回しました。でも、私の心配をよそに、そこには誰もいません。
ホッとしてシュラフから這い出て、首筋の汗を手で拭い、早まった鼓動が収まるまで、しばらく一息つきました。小屋の外を見る決心がつくまで、かなり時間がかかったように思います。
くじいた足の痛みが強くなっていないことを確かめ、靴を履いて、ゆっくりとドアに近づきます。震える手をドアノブにかけ、思い切り引っ張ると――
冷たく新鮮な空気とともに、信じられない光景が目に飛び込んできました。
「あれ……雪が、ない!」
この気温で、あれほど降り積もった雪が、一晩できれいさっぱり溶けてなくなることなど、考えられません。
岩の周りや木の根の影など、少しくらいは残っていてもおかしくないのに、雪はどこにも、まったく見当たりませんでした。
その後、下山しながら、私はこの一連の体験についてずっと考えていました。でも、自分が納得できるような結論には、たどり着けませんでした。
私はきっと、狐か狸にでも化かされたのでしょう。
もしそうだとすれば、それもまた、私にとって初めての経験でした。


