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秘湯の狸

秘湯の狸

京都府 和田俊彦さん(60代・無職)のちょっと変わった体験談

私の趣味は、秘湯巡りです。

もう何十年も前の話になりますが、あの夜のことだけは、今でもはっきりと覚えています。一部屋だけ空いていると言われたはずなのに、廊下でも風呂場でも、他の客の姿を一度も見なかった。あのとき覚えた小さな違和感が、まさかあんな形で答え合わせをされることになるとは、思ってもみませんでした。

若い頃から温泉が好きで、20代後半からは会社の休みを使って、月に2回は日本中の温泉を回っていました。30代の後半になる頃には、その趣味もすっかり本格的になっていて、普通の温泉ではもう物足りない。人里離れた、いわゆる「秘湯」と呼ばれるような温泉ばかりを探して歩くようになっていました。

当時はGPSもインターネットもありません。図書館で下調べをして、あとは現地で地元の人に話を聞きながら、地図とコンパスだけを頼りに山の中へ分け入っていく。今思えば、ちょっとしたサバイバルです。

その年の9月、3連休を利用して、香川県高松市の屋島に向かいました。瀬戸内海を見下ろす山の奥に、目当ての秘湯があったのです。

屋島といえば、太三郎狸(たさぶろうたぬき)の伝説で知られる土地です。別名、屋島の禿狸(はげだぬき)。地元では知らない人がいないほどの化け狸で、その変化の術は日本一とまで言われていました。源平合戦の折、義経の八艘飛びや弓流しの様子を、幻術でまざまざと見せたという言い伝えも残っています。スタジオジブリの『平成狸合戦ぽんぽこ』に出てくる、あのタヌキの大将のモデルと言えば、ピンと来る方も多いでしょう。

こういう土地の言い伝えというのは、秘湯巡りの醍醐味をぐっと引き立ててくれるものです。私はすっかりその気になって、現地近くの温泉宿を探し、予約を入れようとしました。

ところが、運の悪いことに世間はちょうど3連休。近隣のホテルも旅館も、どこも満室で予約が取れません。

それでも、この3連休をみすみす無駄にはしたくない。宿の当てがないまま、思い切って現地入りすることにしました。

「いくら連休中でも、民宿の一部屋くらいは空いているだろう」

そんな甘い読みで現地に着いてみれば、案の定、宿という宿はすべて満室。そうこうしているうちに、あたりはすっかり暗くなってしまいました。

目当ての温泉の方角だけは見当がついていたので、その方向へ、ひとりとぼとぼと山あいの坂を登っていきます。すると、真っ暗な山の中腹に、ぼんやりとした明かりが浮かんで見えました。

旅館だろうか。それにしては小さそうだから、民宿か。いや、もしただの民家だったら、今夜は野宿だ。――そう考えながらも、とにかくダメ元で近づいてみることにしました。

たどり着いたのは、小さいながらも、なかなか立派な構えの旅館でした。

「うわぁ、これはちょっと高そうだな……」

一瞬そう思いましたが、野宿よりはよほどマシです。贅沢は言っていられない、とはよく言ったものですが、あのときの私は、贅沢しか言っていられないという、なんともおかしな状況でした。

荘厳な玄関をくぐり、豪華な調度品の並ぶロビーを抜けて、カウンター越しに受付の女性へ声をかけます。整った顔立ちの、美しい人でした。

「一部屋だけでしたら、ご用意できます」

そう聞いて、正直ほっとしました。恐る恐る宿代を尋ね、こっそり財布の中を確かめると、ぎりぎり一泊分。かなりの予算オーバーでしたが、この際仕方ありません。私はこの旅館に泊まることに決めました。

案内された部屋は、これまで泊まった中でも最高ランクと言っていいものでした。大きな窓の向こうには、麓の街の明かりが、まるで宝石を散らしたように綺麗に見えます。

荷物を運んでくれた仲居さんは、チップを丁重に断ると、それには何も答えずに話をそらすように、夕飯の時間と風呂の場所を丁寧に教えてくれました。

夕飯もまた豪華なものでした。部屋の中央に据えられたお膳の上に、香川の海の幸、山の幸が所狭しと並びます。そのあとに浸かった温泉と露天風呂も、これまでで一番と思えるほどの気持ちよさで、旅の疲れが芯から溶けていくようでした。部屋に戻ると、これもまた絶妙なタイミングで、天空の雲のようにふかふかの布団が敷かれています。

――ただ、布団に横になってから、ふと思ったのです。

受付の女性は、一部屋しか空いていないと言っていました。それなのに、廊下でも、風呂場でも、他の客らしい姿を一人も見かけていません。時間が遅かったから、なのでしょうか。

そのことが、頭の片隅に小さく引っかかりました。けれど、次の日に控えた秘湯探検のことを考えると、その考えは長くは続きません。私はそのまま、深い眠りに落ちていきました。

鳥のさえずりと、眩しい朝日と――それから、妙な寒さで目が覚めました。

寝ぼけた頭のまま、なんとなく身体を起こして周りを見た瞬間、私は自分の目を疑いました。

天井もない。壁もない。私が寝ていたのは、ほとんど基礎のコンクリートと柱だけが残った、完全な廃墟の中だったのです。

昨夜、天空の雲のようだと思った布団は、どこにもありません。私が身を横たえていたのは、崩れかけた床の上に積もった、湿った落ち葉の吹き溜まりでした。

言葉が出ないまま、私はその落ち葉の中から這い出しました。あたりに散らばった自分の荷物を、震える手で一つひとつ拾い集め、転がるようにして山を駆け下ります。振り返る余裕もありませんでした。

町の手前までようやくたどり着いたところで、通りかかった地元の人をつかまえ、震える声でさっきの場所のことを尋ねました。

その人はあっさりと、こう答えました。

「ああ、あそこね。10年くらい前まで、人気の旅館だったんですよ。火事で全焼して、それからずっと廃墟のままです」

それを聞いてから、私は思うようになりました。狸が人間を化かすという言い伝えは、案外、本当にあるのかもしれない、と。

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