茨城県 安並正夫さん(30代・薬剤師)の恐怖体験談
2年の浪人の後、やっとの思いで入った東京の大学。薬剤師になる夢に向かって勉強していた頃の話です。
生まれて初めての一人暮らしは、築30年の古いアパートから始まりました。閑静な住宅街の中でも、ひときわ古びたそのアパート。畳の和室が1部屋に、小さなキッチンとユニットバス。それだけの部屋でした。
居間の押し入れの襖は、建物が歪んでいるせいなのか、いつまでたってもキチンと閉まりません。指一本分くらいの隙間が、常にぽっかりと空いているんです。
その手前の畳には、大根を2本並べたようなシミがありました。手で撫でると、なんだか少し窪んでいるような気もする。そんなシミです。
このシミについては、入居前に不動産屋さんから「畳を替えなくてもいいのなら、敷金と礼金はナシでいいですよ」と持ちかけられて、私はその条件に飛びつきました。学生にとって敷金礼金ゼロは大きいですから。
でも、住み始めてから気づいたんです。そのシミの前を通るたび、なぜかつまづいて転びそうになる。一度や二度じゃありません。何度も、何度もです。ああ、やっぱり畳、替えてもらえばよかったな──そう思いながら、私はその部屋で日々を過ごしていました。
ある夜、サークルの飲み会の帰りに、友人3人と「もう一軒行くか」ということになりました。行くと言っても店ではなく、私の部屋です。途中のコンビニで酒とつまみを買い込んで、アパートへ向かいました。
私の部屋は2階、外階段を上って廊下を突き当たった204号室。夜も遅かったので、みんなで声を潜めながら階段を上っていたとき、ふと気づいたんです。一人だけ、階段の下に残っている友人がいる。
「おい、どうした。上ってこいよ」
小声で呼びかけました。でも、返事がない。彼は私の部屋の方向をじっと見据えたまま、何も答えないんです。
階段の途中で、残りの三人で顔を見合わせました。何かおかしい。仕方なく、一旦階段を降りて彼を迎えに行きました。
「なんだよ、どうしたんだよ」
問い詰めると、彼はぽつりと言いました。
「ごめん、今日はちょっと……帰るわ」
それだけ言い残すと、一人で駅の方へ歩いていってしまいました。残された三人はきょとんとした顔で、しばらく彼の後ろ姿を見送っていましたが、まあいいかと、何事もなかったように私の部屋になだれ込み、夜遅くまで飲んで喋って笑って過ごしました。
翌朝、というかほとんど昼前でしたが、目が覚めると友人たちはもう帰った後でした。その日は講義があったので、私も急いで支度をします。玄関のドアには、おそらく今朝方大家さんが貼っていったであろう「夜は静かに!」の張り紙。それを引きちぎり、クシャクシャに丸めてポストに突っ込み、大学へ向かいました。
大学に着いたのは昼の12時を回った頃。まずは腹ごしらえだと学食に向かうと、昨夜うちで飲んでいた友人たちの姿がありました。
「なんだよ、お前ら出てったの、全然気付かんかったわ」
軽い調子で声をかけると、一人が申し訳なさそうに下を向いたまま、ぽつりとつぶやきました。
「いや、その……一緒に朝までいるつもりだったんだけどな……」
その言葉を遮るように、もう一人が口を挟みます。
「お前、あのアパートでよく寝れるな」
どういうことか、詳しく聞いてみました。すると、押し入れの隙間から、ものすごく冷たい風が出てきたというんです。あまりの寒さに耐えきれず、一睡もできないまま始発を待って帰った、と。
季節は、まだ10月の半ばでした。
それから2週間ほど経ったある日。あの晩、部屋にも入らず一人で帰ってしまった友人と、久しぶりに顔を合わせました。
私に気づいた彼は、胸元まで軽く手を上げて、どこかばつが悪そうな顔でこちらを見ています。
「よう、久しぶり。こないだ、あの後盛り上がっちゃってさ、大家にうるさいって張り紙されちゃったよ。お前、なんで帰っちゃったんだよ」
私が笑いながら言うと、彼は「う……ん……」と言ったきり、しばらく黙り込みました。そして、重そうに口を開いたんです。
「正夫、お前、俺の言うこと、信じる?」
やけに神妙な口ぶりでした。少し引っかかるものを感じながらも、あえて軽く「おう、信じるよ」と返すと、彼はゆっくりと話し始めました。
「俺さあ、なんつうか、霊感みたいなのがあってさ、その……見えるんだよ。霊が」
思いもよらない告白でした。自分の身近にそんな人間がいるとは考えたこともなかった。戸惑う私をよそに、彼の話は続きます。
「お前んち、部屋に押し入れあるだろ? その前で、時々つまづいたり、転んだりしたことないか?」
その通りでした。私は何も答えられませんでした。
「そこにさ、いるんだよ。白装束の黒髪の女が、押し入れに向かって正座してさ。押し入れの奥をこう……指差してるんだよ。その女がいるから、そこでつまづくんだよ。それでさ、押し入れの襖、ちゃんと閉まらないだろ? あれ、その女の指が挟まってるからなんだ。ちょうど指一本分、閉まらないんだよ」
聞き終わった瞬間、私の中で全てが繋がりました。
大根を並べたようなシミは、その女が正座している足の跡。襖の隙間は、まさしくその女の指一本分だったんです。
自分の声が震えているのがわかりました。それを悟られないよう、あえて明るい調子で聞き返します。
「……そ、その女って、一体何が言いたいの? 正座して指差して……どうして欲しいわけ?」
「多分その女、押し入れの奥に何かあるって、訴えてるんだと思うよ」
そう言い終えると、彼は席を立ち、足早に去っていきました。
「マジか……」
一人残された学食で、私はしばらく動けませんでした。
困ったのは、その後です。人間というのは不思議なもので、今まで普通に暮らしていた自分の部屋が、他人の話ひとつで、まるで心霊スポットのように思えてくる。
アパートに向かう足取りは、鉛のように重い。とても一人で部屋に入る気にはなれませんでした。かといって、今夜すぐに泊めてくれる友人もいません。それに、今日どこかに泊まったところで、明日も明後日もあの部屋には帰らなければならない。何の解決にもならないことは、自分でもわかっていました。
部屋の前に立ち、鍵を開けます。そして、なぜかこれまで一度も口にしたことのない「ただいまぁ〜」という言葉が、自然と口から出ていました。
言った瞬間、しまったと思いました。まるで、あの女との同居を、自分から認めてしまったような。
部屋の空気が、いつもより重く感じられました。
私はできるだけ畳のシミから離れて歩き、対角線上の部屋の隅に膝を抱えて座り込みました。そのまま、黙って押し入れの方をじっと見つめます。
しばらくして、友人の言葉を思い出しました。押し入れの奥を確認しなければ。でも、それはそれで、自分の中に別の恐れが湧いてきます。
もし、押し入れの奥を確認して、死体でも出てきたらどうするんだ。警察を呼んで、どう説明する。下手をしたら、自分が疑われるんじゃないか。
そんな馬鹿げた自問自答を繰り返しているうちに、気づけば帰ってから2時間以上が経っていました。
「ダメだ、このままじゃ何も解決しない。よし、やるか」
シミのある側から入るのはどうしても怖くて、私は反対側の襖を開けました。中の荷物を全部引っ張り出し、スマホのライトを点けて、押し入れの中を這うようにして、問題の場所まで進みます。
天井から壁、床へと、順番にライトを当てていきました。
特に、変わったところはありません。
「やっぱり、思い過ごしか。よかった……」
安堵しながら、後ろを振り向いた瞬間でした。
ふすまの隙間に、指が差し込まれていました。
その隙間から、目を見開いた何かが、こちらを覗いています。
そして、声がしました。
「アタシ、ソコデ死ンダノヨ」
私は転がるように押し入れから飛び出し、シミを飛び越え、そのままアパートの外まで走って逃げました。
その日は無理を言って友人の家に泊めてもらいました。翌日、不動産屋に事情を説明して確認したところ、20年以上前、その部屋の押し入れで女性が亡くなっていたことがわかりました。ただ、「その後の住人からは特にクレームもなかったし、あなたの前にも複数の方が入居されています。入居前の告知義務もありませんので」と、取り合ってはもらえませんでした。
結局、私はその後も半年以上、あの部屋に住み続けました。
不思議なことに、あの日を境に、あれほど閉まらなかった襖はピタッと閉まるようになり、シミの部分でつまづくこともなくなったんです。
もしかしたら、あの女の霊は、自分がそこで死んだことを、誰かに伝えたかっただけなのかもしれません。


