しかし、焦る気持ちとは裏腹に、結局その日もほとんどお客さんを乗せることなく、夜明け前に車庫へ戻ることにしました。
車庫に入ると、この時間にしては珍しく、整備士の山岸さんが車庫の脇で作業をしていました。
「ただいま」という意味で、軽くクラクションを鳴らすと、山岸さんは、振り向きざまにギョッとした表情でこちらを見ながら、後退りするようにして私の車を避けました。
「えー! そんなに驚かなくても良いのにな・・・」
そう思いながら車を停め、終業報告のために社内を点検していると、山岸さんが少し離れた場所から、私に向かって手招きしています。
「なんだろう? 車ぶつけた覚えもないし」
そう思いながら車から降りると、山岸さんが目を見開き、真っ青な顔をして私のタクシーを指差しています。
「なによ山岸さん。どうしたのよ」
歩みを止め、振り返って自分の車を見ると、助手席からスーパーサインに覆いかぶさるようにして、女が座っていました。
前にだらりと伸びた髪の間から片目でこちらを睨むその女は、紛れもなく、半月前に別れた彼女でした。
「うぎゃーーーーーっ!!」
2人で事務所に駆け込み、しばらくじっとしていましたが、意を決してもう一度見に行った時には、彼女の姿は消えていました。
山岸さんは
「何だよあれ! あんなモン、どっから乗せてきたのよ!!」
と、カンカンに怒りながら私を問い詰めましたが、もちろん、「あれ、俺の元カノです」なんて、言える訳もありません。
私はやっと、お客さんが上げかけた手をサッと隠すように下ろしたのか、その理由が分かりました。
その後、タクシーの周りを、酒と盛塩で清めて、うちに帰りました。
帰ってからは別れた彼女のことが気になって仕方がなかった、というよりも、もしかして、私と別れたことが原因で、最悪、自殺でもしたのではないかと想像しました。
あんな別れ方をした後でしたので、かなり覚悟が必要でしたが、彼女が起きる頃合いを見計らい、私は意を決して、彼女に電話をかけてみました。
彼女はすぐに電話に出てくれました。
彼女がまだ生きていてくれたことと、思ったより元気だったことで、内心、ホッとしました。
その後、私はあの時、喧嘩で口汚く彼女を罵ったことを、何度も何度も、心の底から謝りました。
彼女もそれを許してくれました。
その後、彼女と直接会うことはありませんでしたが、それ以来、売り上げも徐々に回復し、1ヶ月ほどですっかり元の生活に戻りました。
ところで、彼女が生きていた、と言うことは、あれは・・・彼女の生霊だったのでしょうか。
ちなみに、タクシー業界では、夜間に遠距離利用してくれるありがたいお客さんのことを指して「お化け」と言うことがあります。
彼女には申し訳ないのですが、あんな「おばけ」はもう懲りごりです。
それにしても、タクシーの運転手の方がお客さんを選んで「乗車拒否」という話は聞いたことがありますが、お客さんの方から乗りたくないタクシーを「乗車拒否」するというのは、初めての経験でした。