千葉県 高木仁さん(50代・タクシー運転手)の恐怖体験談
「運転手さん。何か怖い話とか、ないですか?」
夜の長距離のお客さんに、時々そう聞かれることがあります。そういう時だけ、私は昔のある出来事をお話しすることにしているんです。
まだ若かった頃、私は会社の中でもちょっとした有名人でした。ある一定の売り上げを超えたドライバーだけに与えられる特典で、出勤時間も相番(あいばん:同じ車を共有する同僚のこと)も、すべて自分の裁量。誰よりも稼いで、誰よりも自由に働く。それが当時の私のステータスでした。
ところがある時期から、急に客が拾えなくなりました。
しかも、ただ拾えないんじゃないんです。手を挙げていた人が、私の車が近付いた途端、サッと手を下ろす。あからさまに顔をそむける。長年やっていれば、遠くからでも「あ、この人乗るな」というのは分かるものなんですが、その勘が全部、裏切られる。まるで、私の車だけが避けられているような感覚でした。
その理由が分かったのは、ずっと後のことです。
当時の私は、いわゆる仕事の虫でした。とにかく社内ナンバーワンでいることだけが頭にあって、休みの日も一人で寝て体を休めることを優先する。そんな生活です。今と違って業界の規制もゆるく、景気も良かったので、稼ごうと思えばいくらでも稼げた時代でした。給与だけ見れば、一流企業の部長クラスか、それ以上はもらっていたと思います。
その分、私生活のほうはボロボロでした。
当時付き合っていた彼女がいました。一時は結婚も考えていたんですが、だんだんマンネリになって、休みの日に出かけることもなくなって。惰性、というやつです。
ある日、私の部屋に来ていた彼女と、大ゲンカになりました。きっかけは本当に些細なことだったんですが、若さというか、その場の勢いというか……私は彼女に、ここではとても言えないような、口汚い言葉を浴びせてしまったんです。
泣きながら部屋を飛び出していく彼女を、私は追いかけませんでした。
「まぁいいか。俺には仕事があるから」
そう自分に言い聞かせて。今思えば、ただの言い訳だったんですけどね。
それ以来、彼女とは一度も会っていません。
不思議なもので、その翌日から、仕事にまるで身が入らなくなりました。集中力を欠いていたんでしょう。売り上げがまったく上がらない。翌日も、その翌日も。
私には「必勝パターン」というのがありました。終電前の駅で一人乗せたら、空車表示に戻して市内を流す。夕方から明け方にかけて、帰宅のサラリーマンと深夜割増狙いの長距離客――業界で言う「お化け」を捕まえる。それを何組か重ねれば、その日の目標はクリア。いつもならそうやって、気持ちよく車庫に帰る日々だったんです。
それが、何週間も続かない。短距離の客さえ乗せられない。
「なんでよ。なんで乗ってくれないの」
「このままじゃ足切りだぞ」
焦れば焦るほど、空回りする。その日も結局、ほとんど客を乗せられないまま、夜明け前に車庫へ戻ることになりました。
車庫に着くと、この時間には珍しく、整備士の山岸さんが車の脇で作業をしていました。「ただいま」のつもりで軽くクラクションを鳴らすと、山岸さんが振り向きざま、ぎょっとした顔でこちらを見て、後退るように私の車を避けたんです。
「えー、そんなに驚かなくても……」
そう思いながら車を停め、終業報告のための点検をしていると、少し離れたところから山岸さんが、青ざめた顔で私を手招きしていました。
「なんだろう。車、ぶつけた覚えもないんだけどな」
車から降りて近付くと、山岸さんは目を見開いたまま、私のタクシーを指差して固まっていました。
「なによ山岸さん。どうしたのよ」
振り返って、自分の車を見ました。
助手席のスーパーサインに覆いかぶさるようにして、女が座っていました。
だらりと垂れた前髪の間から、片目だけがこちらを見ている。それは、半月前に別れたはずの、あの彼女でした。
「うぎゃーーーーーっ!!」
私と山岸さんは、そのまま事務所に駆け込みました。しばらく息を潜めて、それでも意を決してもう一度見に行くと――彼女の姿は、もうどこにもありませんでした。
「何だよあれ! あんなモン、どっから乗せてきたのよ!!」
山岸さんはカンカンに怒って私を問い詰めましたが、まさか「あれ、俺の元カノです」なんて言えるわけがありません。
ただ、その一件で、ようやく合点がいったんです。手を挙げたお客さんが、私の車が近付くたびにサッと手を下ろしていた理由。おそらく、あの女が助手席に座っているのが、向こうからは見えていたんじゃないかと思うんです。
タクシーの周りを酒と盛塩で清めてから、その日は帰りました。
家に帰っても、彼女のことが頭から離れませんでした。むしろそこで初めて、本当に怖くなったんです。もしかして、私と別れたことが原因で、最悪、自分で命を絶ってしまったんじゃないか――そんな想像ばかりが浮かんで。
あんな別れ方をした後です。かなりの覚悟がいりましたが、彼女が起きていそうな時間を見計らって、私は電話をかけました。
彼女は、すぐに出てくれました。
生きていた。しかも、思っていたより元気そうな声でした。それだけで、内心ほっとしている自分がいました。
私はその場で、あの晩のことを何度も何度も謝りました。彼女は、それを許してくれました。
以来、彼女と直接顔を合わせることはありませんでしたが、不思議とその頃から、売り上げも少しずつ戻っていきました。一ヶ月もすると、すっかり元の生活です。
彼女は、確かに生きていました。だとすると、あれは一体、何だったんでしょうか。
生霊、というやつだったのかもしれません。今でも、分かりません。
タクシー業界では、夜間に遠距離で乗ってくれるありがたい客のことを「お化け」と呼ぶことがあります。彼女には申し訳ないんですが、あんな「お化け」だけは、もう二度と勘弁してほしいですね。
運転手がお客さんを選んで「乗車拒否」する話は、まあよく聞きます。でも、お客さんの方から、乗りたくないタクシーを拒否する――そんな経験をしたのは、後にも先にも、あの時だけです。


