静岡県 足立美佳さん(20代・保育士)の体談験
これは、私がまだ保育士を目指して大学に通っていた頃の話です。
大学は駅から徒歩10分。途中にある小さな公園を斜めに突っ切れば、少しだけ近道になります。
ただ、その公園には通りたくない理由がありました。建物と植栽に挟まれ、昼間でも薄暗いんです。以前そこで焼身自殺があったとか、夜は痴漢が出るとか、あまり良い噂を聞かない場所でした。
遊具は駅側の入り口から見て右奥の死角に、赤いブランコが2つ、ぽつんとあるだけ。子供が遊んでいるところなんて、ほとんど見た記憶がありません。
だから私は、講義に遅れそうな昼間だけ、その公園を抜けることにしていました。
ある蒸し暑い梅雨の日のことです。
いつも乗る電車が途中で止まってしまいました。「沿線の大雨の影響で遅れが出ています」というアナウンス。よりによって、その日は前期試験の日でした。
祈るような気持ちで待つこと10分。ようやく電車が動き出しました。
駅に着いたときには雨は上がっていましたが、空は相変わらず重く、暗いまま。改札を抜けて、そのまま小走りで大学に向かいます。
あの公園の前に差し掛かった時に、考えました。
「このままじゃ遅刻する……朝だし、大丈夫」
自分にそう言い聞かせて、なぜか意味もなく息を止めて、一気に公園を駆け抜けました。
抜けた直後、なんとなく後ろを振り返ると……奥の赤いブランコに、紺色のワンピースを着た女の子が一人、座っているのが見えました。
「あれ……さっきもあの子、いたかな?」
引っかかるものを感じながらも、試験に遅れるわけにはいきません。私はそのまま大学へ急ぎました。
試験には何とか間に合い、その日の講義をすべて終える頃には、もうすっかり日が暮れていました。
友人と一緒に帰る途中、再びあの公園の前を通ります。
暗い公園の奥のブランコに、今朝と同じ女の子が、座っていました。
「え……朝からずっとここに……?」
思わず漏れた独り言に、友人が「美佳、どうしたの?」と聞いてきます。私は立ち止まったまま、朝の出来事を話しました。
「そんな小さい子が、朝から同じ場所にいるわけないよ」
友人はそう言って歩き出しましたが、私はどうしても気になってしまって。気づけば、公園の中に足を踏み入れていました。
「ちょっと、美佳、どこ行くの」
友人が慌てて追いかけてきて、私の腕を掴みます。
「うん……あの子がちょっと、気になって」
女の子の前まで来て、近くで見ると、紺色のワンピースはシミとほつれだらけ。
背中まである長い髪はツヤを失って、ひどく乱れています。
まるで何日もお風呂にも入らず、誰にも構われていないような姿でした。
友人も言葉を失っている中、私は思い切って声をかけました。
「こんにちは……こんばんは、かな。お嬢ちゃん、一人で遊んでるの?」
女の子はうつむいたまま、無反応です。
「お姉ちゃんは美佳っていうの。お嬢ちゃんの名前は? お家、近く?」
女の子は無言のまま、公園の金網の向こうにある古いアパートを指差しました。
「ねえ、朝からずっとここにいたの?」
女の子はゆっくり首を横に振って、初めて口を開きました。
「……ちがうよ……」
その声を聞いた瞬間、友人が私の腕を強く引きました。
「もういいでしょ、美佳。行こう」
後ろ髪を引かれる思いで「じゃあね」とだけ言い、私は友人に連れられるように公園を後にしました。
ファミレスで夕飯を食べている間も、あの子のことが私の頭から離れませんでした。
「あれ、ネグレクトなんじゃ……児童相談所に、連絡した方がいいのかな」
「他人の家に、あんまり首突っ込まない方がいいよ」
友人はそう諭してくれましたが、私は講義で習うのとはまるで違う、現実の重さのようなものを感じていました。
土日を挟んだ翌週の月曜日。
久しぶりの晴天で、風も心地よい朝でした。公園の前に来て、ふと女の子のことを思い出します。
駅側の入り口からブランコを覗いてみましたが、誰もいません。晴れていて明るいとはいえ、公園の中を突っ切る気にはなれず、駅で会った友人と私は、外周をぐるっと回って大学へ向かうことにしました。
ところが、公園の反対側まで来たときです。
さっきは誰もいなかったはずのブランコに、女の子が座っていたのです。
「さっきはいなかったのに」
その日の帰り道、薄暗くなった公園の、反対側からブランコを見ると、またあの女の子が座っています。近づこうとした私を、友人が無言で首を振って止めました。
とても気にはなったのですが、私たちは公園の中には入らず、駅側の入り口まで回り込んで、もう一度ブランコを覗いてみました。
「あれ?……いない」
たった1分足らずでいなくなったのでしょうか。確かめたくなり、私は友人をその場に置き去りにしたまま、反対側の入り口まで走って戻りました。
――女の子は、やはりブランコの座っていましたーー
背筋が凍りつくのを感じながら、私はその場に残ったまま、置き去りにした友人に電話をかけました。友人に私と反対側から公園の中を見てもらいたかったのです。
「もしもし? 今、ブランコのところ見える? 女の子いる?」
「……いないね」
私の目の前には、間違いなく女の子が座っています。でも、駅側にいる友人からは見えない。
同じ時刻、同じブランコを見ているのに、見る場所によって「いる」「いない」が変わる。
そのとき、確信しました。あの女の子は、公園の奥側からしか、見えないのです。
怖いのに、足が止まりません。気づけば私は公園の中に入り、女の子の方へ歩いていました。
友人が慌てて追いかけてきて、私の腕を引っ張った、その瞬間。
「ちがうよ。朝からじゃないよ。
お母さんがいなくなってから、ずーっとだよ」
低く、こもった声。とても子供のものとは思えませんでした。
そのとき初めて、女の子が顔を上げました。
頰はこけ、両目は真っ黒にくぼんでいました。
私と友人は、転がるようにしてその場から逃げ出しました。
――友人には、女の子の姿も声も、最初から最後まで一切見えていなかったそうです。
それ以来、私はあの公園を避け、遠回りするようになりました。
3ヶ月後、久しぶりに元の道を通った時、あの古いアパートは取り壊し工事中になっていました。
友人が後になって調べてくれた話では、1年半ほど前、そのアパートに母親と2人で暮らす小学生の女の子がいたそうです。
母親がある日突然いなくなり、女の子は何ヶ月も一人で母親の帰りを待ち続け――そのまま、部屋の中で餓死したのだと聞きました。
公園で見た女の子が、その子だったのかどうかは分かりません。
ただ、無力な私にできるのは、亡くなった女の子の冥福を祈ることだけでした。


