東京都 佐藤雅信さん(30代・会社員)の恐怖体験談
これは社会人になった今でも、ふとした瞬間によみがえってくる体験談です。
当時、俺には毎年更新し続けている、ある「記録」がありました。彼女いない歴、というやつです。
岐阜の田舎町から二浪の末、「東京の大学ならモテるだろう」という根拠のない期待だけを胸に、ミッション系の大学に入学しました。憧れの一人暮らし、花のキャンパスライフ。思い描いていたものは、たいてい現実には裏切られるものです。
入学してすぐ、スポーツ系のサークルに入りました。ただし中身は、いわゆるチャラ系。金曜になるとほぼ隔週で合コンが組まれる、そういうサークルでした。
女性が苦手というわけではありません。ただ、まったくモテない俺にとって、この金曜恒例行事は、楽しみでもなんでもなく、ただの苦役でした。
学費と生活費は、共働きの両親がなんとか工面してくれていましたが、遊ぶ金までは頼めません。週末の飲食店バイト代は、ほとんど毎回、合コンの会費で消えていきました。そんな生活が、かれこれ一年ほど続いていて、正直、そろそろ限界を感じ始めていた頃でした。
新学期を迎えたばかりの、どこか気の重い春の金曜日。
その日の合コンも、俺はあまり乗り気ではありませんでした。店に入ってすぐ、テーブル左奥の窓際に陣取ります。目立たず、ひっそりと時間をやり過ごす作戦です。
(このサークルも、そろそろ辞めどきかもな)
はしゃぐ友人たちを尻目に、そんなことを考えながら窓の外をぼんやり眺めていると、二十分ほど遅れて女性陣が店に入ってきました。
その中のひとりが、俺の座る席のさらに奥、壁との間にできたわずかな隙間を指差して言いました。
「ここ、いいですか?」
見上げると、胸の前で束ねた黒く長い髪が印象的な、ひどく清楚な雰囲気の女性が立っていました。テーブルと壁のあいだは、十センチあるかないか。彼女はその隙間を器用にすり抜けて、俺の左側に回り込んできたのです。
(ずいぶん細い子だな)
内心そう感心しながら、「あ、もちろん、どうぞどうぞ」と右隣の友人をぐいっと押しのけ、無理やりスペースを作りました。
壁と俺に挟まれる格好で座った彼女は、驚くほど気のきく女性でした。皿が空けばすぐに取り分けてくれる。グラスが減れば、すかさず注いでくれる。
「名前、聞いてなかったよね。俺、マサノブ。佐藤雅信。君は?」 「ユイです」 「ユイちゃんか。ごめんね、ここ狭くない?」 「あ、全然、大丈夫ですよ」
その受け答えの雰囲気ひとつまでもが、いちいち可愛く思えてくるのですから、我ながら現金なものです。
(俺はきっと、この日のために、このサークルに入ったんだ)
本気でそう思いました。いつもなら「お開き」が待ち遠しい合コンなのに、その日ばかりは、時計のほうが狂っているのではと疑うほど、時間があっという間に過ぎていきました。
(どうしよう、連絡先、なんとかしないと)
焦りはじめた俺の心中を察したのか、ユイはやはり気がきく女性でした。
「マサノブさん、連絡先、聞いてもいいですか? だめ?」
もう、死んでもいいと思いました。いや——死んだらもう会えない。むしろ死ぬまで長生きしたい、と思い直しました。
彼女は今どき珍しく携帯電話を持っていませんでしたが、そんなところすら、清楚で可憐な印象として上乗せされていきます。吸い込まれるような感覚のまま、俺は番号どころか、聞かれてもいないアパートの住所まで教えてしまいました。
「うわ、ヤバイ……クッソ可愛い……」
一生懸命、丁寧にメモを取る彼女の横顔は、完全に天使でした。魂ごと持っていかれた、と言ってもいいかもしれません。
合コンがお開きになり、二階の店から一階に下りると、男性陣と女性陣は左右に分かれて帰路につきます。女性たちが軽く手を振って一斉に駅へ向かうなか、ユイだけはその場を動かず、俺たちの姿——いえ、正確には、俺の姿だけを、見えなくなるまでずっと見送っていました。
浮かれたまま眠りにつき、翌朝目を覚ました俺は、自分が人生最大級のミスを犯したことに気づきます。
ユイの連絡先を、聞いていなかったのです。
(俺……マジ、バカか……向こうから連絡来なかったら、もうそれで終わりじゃんか)
その日は一日中、食欲もわかず、頭のどこかがずっとぼんやりしていました。夕方からのバイトでも、細かいミスを連発する始末です。
夜九時を過ぎ、疲れた足取りで帰宅しました。いつもより疲労が濃い気がしました。風呂に入ろうかと思った、そのときです。
ピンポーン。
(こんな時間に、宅配便か?)
ドアスコープを覗くと——そこに立っていたのは、スーパーのレジ袋を提げたユイでした。
半ばパニックになった俺は、自分がパンツ一丁だということすら忘れて、勢いよくドアを開けてしまいます。その姿を見たユイは、優しく微笑んで、
「少し、外で待ってるね」
そう言って背を向けました。そこでようやく、自分のあられもない格好に気づいたのです。
転がるようにズボンを履き、床に落ちていたシワくちゃのTシャツを引っかけ、部屋に散らばったものの七割方を押し入れに突っ込んでから、外で待つユイを招き入れました。
「ご……ごめんね、なんか散らかってて……(なんで今日に限ってこんな散らかってるんだ、俺のバカ)」 「私こそ、急に押しかけちゃって、ごめんなさい」
ユイはきちんと頭を下げてから玄関に入り、脱いだ靴を丁寧に揃えると、当たり前のような足取りでキッチンに立ちました。長い黒髪をきゅっと後ろで縛り、料理を始めます。
「ご飯、まだですよね? お米、ありますか?」
そこから先は、まるでドラマか漫画の一場面でした。促されるままシャワーを浴びている間に、ユイはご飯を作り終え、いつのまにか部屋の掃除まで済ませていたのです。
小さなちゃぶ台の上に所狭しと並んだ手料理は、どれも本当に美味しくて、心の中で「わが人生に一片の悔いなし」と叫んでいたほどです。
食事を終え、キッチンで洗い物をするユイの後ろ姿をぼんやり眺めていると、ふと時計の針が十一時を回っていることに気づきました。
(この時間ってことは、もしかして、泊まっていくつもりなのか……?)
期待にどうにかなりそうでしたが、これが一生の不覚でした。美味しい手料理で満腹になった俺は、彼女の背中を見つめながら、いつの間にか眠りに落ちてしまったのです。
翌朝、ちゃぶ台に顔を伏せたまま目を覚ますと、ユイはもう帰った後でした。時計は昼の十二時を少し回っています。
「やっべ、バイトだ!」
慌てて家を飛び出し、戻ってきたのは夜九時過ぎ。その日はどういうわけかバイト中も体が重く、前日はたっぷり眠ったはずなのに、どこか体調がすぐれません。
(変な体勢で寝たせいかな。それとも寝すぎたか)
そう思いながらシャワーを浴び、昨日の幸福な時間を思い返してドライヤーの前でにやついていると——また、大きなレジ袋を提げたユイが訪ねてきました。
天にも昇る心地でした。昨日と同じように至福の時間を過ごし、満腹のまま、またいつの間にか眠りについてしまいます。
その次の日も、目が覚めたのは昼過ぎでした。午前中に出席必須の講義があったはずですが、もう間に合いません。連日の手料理のおかげで空腹感もなく、昼食を取ることもなく、結局大学へも足を運びませんでした。
半日をだらだらと過ごしたその日の夜も、ユイはいつもの時間に、レジ袋を提げてやってきます。
次の日も、そのまた次の日も。怠惰と至福だけが繰り返される日々が続いていきました。
ユイが最初に俺の部屋を訪ねてきた日から、六日目のことです。
その日の昼過ぎ、俺は腹部の激痛と、猛烈な吐き気で目を覚ましました。今まで経験したことのない、はらわたがねじれ返るような痛みでした。
かろうじて自分で救急車を呼び、病院で検査を受けると、診断は「イレウス(腸閉塞)」。鼻からチューブを通し、腸の中身を吸い出す処置が行われました。
引き出されたのは、ゴミやビニール片に混じった、黒く長い髪の毛でした。それも、両手にひとすくいほどの量です。
医師には「キミ、一体何を食べたの?」と不思議がられましたが、当然、身に覚えなどありません。
救急搬送の知らせを聞いて、田舎から母親が血相を変えて駆けつけてきた頃には、痛みもすっかり引いて、ベッドで暇を持て余すほど回復していました。仕事のある母に、せめて部屋の掃除だけでもという申し出を断り、早々に帰ってもらいます。
そのとき母は、俺の身を案じて、「しばらく、首からぶら下げておきなさい」と、地元の神社で求めたお守りを手渡してくれました。
その効果もあったのか、経過は良好で、二日ほどで退院できることになりました。
退院の日、アパートに着いたのは夕方四時ごろでした。
(そういえば、俺がいない間もユイちゃん来てたのかな。心配してるかもな)
そんなことを思いながらドアを開けた瞬間、目の前の光景に、しばらく声が出ませんでした。
部屋の中はゴミが散乱し、まるで人の住まなくなった廃墟のような有様だったのです。
部屋だけではありません。キッチンにも、押し入れにも、トイレにも、浴室にも、そして洗濯機の中にまで——病院で自分の腸から吸い出されたものと、同じ黒く長い髪の毛が、埃とゴミにまみれて落ちていました。
その光景を見た瞬間、喉の奥がきゅっと締まるような感覚があって、気づけば胸元のお守りを強く握りしめていました。
(俺は……これを喰って……喰わされていたのか……?)
拾い集めた髪の塊を見つめながら、一番考えたくない結論に、行き着かざるを得ませんでした。
(ユイちゃんが……これを、俺に……?)
片付けが一段落したころ、時計はまた夜の九時を回っていました。
そのとき、ドアチャイムが鳴りました。
(ユイちゃんだ)
その瞬間、俺は音を立てないようそっと鍵をかけ、玄関から一番遠い部屋の隅に身を隠しました。
ピンポンピンポンピンポン。
激しくチャイムが連打されたと思うと、次の瞬間、
ドンドンドンドンドンドン。
ドアが外れてしまいそうなほどの力で、ノックが響き渡りました。
目をつむり、両手で耳をふさぎ、ただ祈るように、彼女がいなくなるのを待ちました。
しばらくして、ノックの音がふっと止みました。恐る恐る覗き窓から外をうかがうと、そこには誰の姿もありません。
ほっとして振り返った、その瞬間でした。
目の前に、髪を逆立て、鬼の形相をしたユイが立っていました。アパート全体が震えるような大声で、彼女はこう叫びました。
「ワタシノ カミ タベテヨ!!!」
気づいたときには朝で、俺は玄関に倒れ、気を失っていました。
手には、母から渡されたお守りが、しっかりと握られたままでした。
結局、ユイが人間だったのか、それとも別の何かだったのか。そしてなぜ、自分があんな目に遭わされたのか。今もその理由はわからないままです。
俺は今、別のアパートを借りて暮らしています。


