長野県 合田裕人さん(40代・警備会社経営)の恐怖体験談
ーーこの怪談には一部刺激的な表現が使用されています。閲覧の際はご注意くださいーー
まだ私が、刑事部捜査一課にいた頃の話です。
捜査一課は、殺人、強盗、暴行、傷害、誘拐、性犯罪といった凶悪犯罪を扱う部署でした。十八年間、そこで数えきれない事件を見てきましたが、その中で一件だけ、今も時折夢に見るほど記憶に焼き付いている事件があります。
始まりは、たった一台の放置車両でした。
梅雨明け直後の、うだるように暑い日です。山沿いの村の住民から「山道脇に不審な車が停まっている」という通報が入りました。近くの派出所の巡査が確認に向かうと、県内ナンバーのその車は、三日前に盗まれた盗難車両だと判明しました。
応援を受けた警察官と消防団が周辺を捜索します。車からそう遠くない急斜面で、一人の男性が倒れているのが見つかりました。瀕死の状態でした。
財布の中の期限切れの免許証から、身元が割れました。
北岡慎一郎(仮名)、当時二十九歳。
そして、この身元確認が入った瞬間から、この事件は普通ではなくなったのです。
私は刑事として「罪を憎んで人を憎まず」を信条にしてきたつもりでした。ですが、この男だけは違いました。
北岡には前歴がありました。未成年時に一件、20代の時に四件。いずれも幼い女児をわいせつ目的で誘拐した事件です。しかも成人後の事件では、精神疾患を理由にすべて無罪判決を受けていました。
「なぜだ。被害者がいるのに、罪を負う人間がいないのか」
当時血気盛んだった私は、そう訴え続けました。あいつは詐病だ、必ずまた被害者が出る、と。
ですが上司は静かに言うだけでした。
「ありゃ有罪にはできん。せいぜいヒカンチ※1だ」
北岡はその後、措置入院となりましたが、三年も経たずに退院し、行方が分からなくなっていました。
——そんな男が、一人で山へ入る。
山菜採りなどするはずがありません。理由は一つしか考えられませんでした。人に見つかってはいけないものを、隠すためです。
ただ、当の本人は意識不明で、話を聞ける状態ではありませんでした。
怪我も異常でした。右側頭部骨折、肺損傷。そして右足首は、何かで削ぎ落とされたように「く」の字にえぐられていたのです。
科警研に着衣を回してもらうよう、私は上司に頼み込みました。結果はすぐに出ました。着衣から、わずかに別人の血液が検出されたのです。
さらに別班の捜査で、車が盗まれた前日から、七歳の少女が行方不明になっていたことが分かりました。
地元警察と消防団も加わり、大規模な山狩りが始まります。
数時間後——北岡が倒れていた斜面の真上で、少女と思われる胴体部分が発見されました。すぐ横には、血の付いたスコップ。北岡のアパートに備え付けの、除雪用のものでした。
「近くに頭部があるかもしれない」
捜索は続きました。そして十五分ほど山を登った先、少し開けた平地で、埋められていた頭部が見つかりました。
あまりにも陰惨な光景に、嗚咽し泣き崩れる捜査員もいました。
ですが私は、その場で別の違和感を覚えていました。
頭部は完全に埋められていた。しかし胴体は、掘り返され、山道へ持ち出されていた。手前には一度掘り返したような跡と、破れたポリ袋が残っていたのです。
なぜ北岡は、わざわざ胴体だけを掘り起こしたのか。なぜ山道まで運び出そうとしたのか。
疑問は、深まる一方でした。
数日後、北岡は病院の集中治療室で意識を取り戻しました。「短時間なら構わない」という医師の条件のもと、私たちは供述を聞くことになりました。
声は驚くほど弱々しいものでした。
「俺は自宅アパートの駐車場から、近所の小学生を物色していました」
「ちょうど低学年の女の子が通ったので、面白いゲームがあるからって声をかけて……部屋へ連れ込みました」
「そこで、いたずらしようとしました。でも抵抗された」
「縛って監禁するつもりで用意していたロープで……首を絞めました」
「殺しました」
病室が静まり返りました。誰も何も言いません。空調の音だけが、やけに耳につきました。
「最初は遺体をバラバラにして、少しずつ捨てようと思いました」
「でも浴室で首を切断したところで気付いたんです。かなりの重労働だって」
「だから、それ以上はやめました。首と胴体を別々の袋に入れたんです」
「山なら見つからないと思いました。近くの駐車場で車を盗んで、アパートにあったスコップを持って山へ向かいました」
「車で行けるところまで行って、その後は歩いて登りました」
「途中で少し開けた場所を見つけて、そこで埋めようとしたんです」
「でも除雪用のスコップだったから、深く掘れなかった。だから、とりあえず隠れる程度だけ埋めました」
ここまでの供述は、状況証拠とも一致していました。私自身、納得していました。
問題は、この後です。
「胴体は? なぜ胴体だけ持ち帰ろうとした?」
その瞬間、北岡の表情が変わりました。血の気が引き、唇が小さく震え始めたのです。
「俺は……女の子を埋めた後……スコップを捨てて、山道を下ってました」
「二十分くらい歩いた頃です。誰かの足音が聞こえたんです」
ザッ……。
ザッ……。
ザッ……。
「俺じゃない足音でした。落ち葉を踏みながら、こっちへ来るんです」
北岡は近くの岩陰へ身を潜め、息を殺し、耳を澄ませたそうです。
すると、足音に混じって、別の音が聞こえてきました。
カラコロ……。
カラコロ……。
金属板を引きずるような音。
(……スコップだ)
(誰かが持ってる……)
(埋めてるところを見られたか?)
(なら……仕方ない。殺るか……)
「俺は覚悟を決めました。じっと待ったんです」
あと十メートル。
八メートル。
五メートル。
三メートル。
二メートル。
一メートル。
——今だ。
「俺は飛び出しました」
「でも……」
「目の前にいたのは……」
「スコップを引きずりながら歩く……首のない女の子でした」
病室の空気が、一瞬で止まった気がしました。誰も言葉を発しません。私も、にわかには信じられませんでした。
ですが——北岡の顔に浮かんでいた恐怖だけは、本物に見えました。
顔は青ざめ、唇を震わせ、目には涙まで浮かんでいました。後悔と恐怖に押し潰されたような声で、北岡は続けました。
「そいつは……引きずっていたスコップを、両手で持ち直したんです」
「俺は逃げました。夢中で振り返って、走りました」
「でも、次の瞬間……削がれた……って思いました」
少女は逃げようとする北岡へ向かって、スコップを振り下ろしたそうです。まるでアキレス腱だけを狙ったように。
北岡はそのまま斜面を転がり落ち、気が付いた時には病院のベッドの上だったといいます。
そこまで話し終えた直後、北岡の容体が急変しました。
その後二日間、男は病院のベッドの上で悪夢にうなされ続け——死亡しました。
私も今まで見たことがないほど異様な死に顔でした。苦痛、後悔、そして恐怖。そのすべてが張り付いたまま、固まったような表情でした。
数日後、被害者少女の司法解剖結果が出ました。死因は、北岡の供述通り絞殺。死後に頭部を切断されていたことも判明しました。
ただ、最後まで説明のつかないことがありました。
少女の足の裏に、死後についたと思われる無数の傷があったこと。
そして——北岡のアキレス腱を切断した除雪用スコップから、北岡を含む複数人の指紋に加えて、被害者少女本人の指紋が検出されたことです。
結果として、北岡の不可解な供述を、私たち警察自身が科学的に裏付けることになってしまいました。
※1:精神障害により、自傷他害に至る恐れがある場合、精神保健福祉法により、その患者を都道府県知事(または政令指定都市市長)の権限と責任において強制的に入院させること。


