愛知県 富里やよいさん(10代・会社員)の恐怖体験談
社会人3年目の春、私は念願だった一人暮らしを始めました。
でも、その部屋には、私が置いてきたはずのものが、ついてきていたんです。
一人暮らしは、ずっと前から憧れていました。
でも父の反対がすごくて。異常なくらい、頑なに。 なかなか実現しないまま、何年も経っていました。
きっかけは、近所の不動産屋さんで偶然見つけた物件でした。 一目惚れした私は、父ともう一度交渉しました。
「実家から近いなら」
その一言で、やっと夢が叶ったんです。
部屋は4階建てマンションの3階、角部屋。 実家からは、たった300メートルほど。 しかも4階にはオーナーさん家族が住んでいて、それが頑固な父を口説き落とす決め手になったようでした。
ちょうどその頃、3年付き合った彼氏と別れたばかりでもあって。 心機一転、という気持ちも、正直ありました。
引っ越し費用を抑えるため、大きな荷物だけ業者さんにお願いして、あとは友人たちにも手伝ってもらいながら、自分で運びました。
手伝ってくれた友人たちが帰ったあと、私は一人で、荷解きの済んでいない段ボールを片付けていました。
そのうちの一つ、部屋の隅に置いてあった箱の中から――
人形の顔が、覗いていました。
「やだこれ、家に置いてくるはずだったのに……」
フランス製のビスク・ドール。 顔と手足が陶磁器でできていて、真っ白なドレスを着た、綺麗な人形でした。
元カレから誕生日にもらったものです。 当時ちょっとおねだりして買ってもらった、かなり高価な人形でした。
付き合っていた頃はもちろん大事に飾っていましたが、別れてからは、なんとなく見るのも嫌で。 部屋の隅に、ずっと放ったらかしにしていました。
高価なものだから、ネットで売ろうかとも考えたんです。 でも、もし元カレがそれを見つけて「なんてヒドい女だ」なんて思ったら嫌だなと思うと、それもできなくて。
だから今回の引っ越しで、どさくさに紛れて実家に置いてきて、あとで母にこっそり処分をお願いしよう――そう決めていたのに。
手伝ってくれた友人の誰かが、うっかり箱に入れてしまったんでしょう。
人形は、段ボールの中から、顔だけを寂しそうに覗かせていました。
それからしばらく経った、休日のことです。
引っ越しも一段落して、最後に残った段ボール箱の中のあの人形が、だんだん気になってきました。
「心機一転! 断捨離、断捨離!」
自分にそう言い聞かせて、私は思い切って人形をビニール袋に入れ、マンションのゴミ捨て場に置いてきました。 それから、友人との約束の場所へ向かいました。
楽しい休日を過ごして、夜9時過ぎに帰宅すると――
私の部屋のドアノブに、手提げの紙袋が掛かっていました。
「お母さんかな?」
中を見ると、「これは燃えるゴミではありません」というメモと一緒に、あの人形が入っていました。
そういえば、不動産屋さんから釘を刺されていたんです。 このマンションのオーナーさんは、ゴミの分別にとても厳しいから気をつけて、と。
「そこまで厳しいか……」
確かに、ビスク・ドールは顔と手足が陶器、体は木と金属、服は布。全体としては「燃えるゴミ」ではないのかもしれません。
でも。
「これを捨てたのが私だって、どうしてわかったんだろう」
なんとなくモヤモヤしたものを感じながら、その日はとりあえず、人形を部屋に置いておくことにしました。
翌日も休みだったので、掃除と洗濯を済ませてから、改めて処分の方法を考えました。
「分別すれば捨てられるけど……さすがにバラバラにするのは、ちょっと無理だな」
一度は可愛がった人形です。人形に罪はありません。
「誰かもらってくれないかな。でも……みんなこの人形のいきさつ、知ってるしな」
結論は、やっぱり実家に持って行って、母に処分してもらおう、ということでした。
リュックに人形を入れて、友人との待ち合わせの前に、実家へ寄りました。
母に直接手渡すのは気が引けたので、こっそり自分の部屋に置いて帰るつもりでした。
でも、玄関の鍵は閉まっていて、留守のようでした。
何度かチャイムを鳴らし、実家の合鍵をマンションに置いてきたことを悔やみながら、母の携帯に電話をかけました。
出ません。
「あれぇ、買い物かなぁ。どこ行っちゃったんだろう」
しばらく玄関前で待っていましたが、友人との約束の時間が近づいても、両親が帰ってくる気配はありませんでした。
仕方なく、私はそのまま待ち合わせ場所に向かいました。
夜になって、両親がどこに行っていたのかメールで聞いてみると、母からの返事はこうでした。
「今日はどこにも行ってないよ。1日中家にいた」
「でも電話したよ、着信履歴あるはずだよ」と返すと、
「そんな履歴、こっちにはないけど。他のところにかけたんじゃないの」
そのやり取りで、母とは少し険悪なムードになってしまい、頼み事ができる空気ではなくなりました。
私は、次の手段を考えることにしました。
そんな時、たまたま点けていたテレビで、人型の紙を川に流す祭りが映りました。
「そうだ。川に流しちゃおう」
我ながら、あまり褒められた考えではありません。
マンションから歩いて10分ほどのところに、夏場は家族連れで賑わう親水公園があります。 あそこなら、人目にもつかないはず。
夜10時をまわった頃、罪悪感を抱えたまま、私は人形を持って川へ向かいました。
階段を降り、川に近づき、人形を手にして。
「ごめんね」
心の中でそうつぶやいて、そっと川へ流そうとした、その瞬間でした。
「ピピピピピッ! ダメだよ、そんなもの流しちゃ!」
巡回中のお巡りさんに、見つかってしまいました。
こっぴどく叱られて、私はまたトボトボと、人形と一緒に家へ帰る羽目になりました。
家に帰って、人形を見ながらふと思ったんです。
「あんなにおねだりして買ってもらった人形だし……元カレの何かが、この人形を捨てさせないようにしてるのかな」
そう考えると、少しずつ、怖くなってきました。
それから何日も方法を考えて、私はまた、あまりよくない案を思いつきました。
「川がダメなら、山に行こう」
次の休日、自転車で30分ほどのハイキングコースの入り口に向かいました。
小さな山をぐるっと一周して降りてくるコースで、頂上まで行けば半日仕事ですが、途中の斜面まで行って引き返せば、1時間ほどで帰れます。
リュックに人形を入れ、自転車にまたがって出発しました。
10分ほど走った交差点で――
私は、車にはねられました。
自転車ごとはね飛ばされて、道路に叩きつけられて。 遠のいていく意識の中、リュックから飛び出したあの人形が、道路の上、私のすぐ目の前に転がっているのが見えました。
こちらを向いて。
気を失う直前、向かい合って倒れている私に向かって、人形の口がはっきりと動きました。
そして、聞こえたんです。
「ハァ・・ナァ・・レェ・・ナァ・・イィィィ・・・」
次に気がついたのは、静かな病院のベッドの上でした。
右横に目をやると、事故で散らばった私の荷物を、誰かが拾い集めてくれたのでしょう。 母が、それを整理してくれていました。
「……お……かぁ……さん……」
力なく声を出すと、母が振り向いて、涙を浮かべて喜んでくれました。
でも私は、それどころじゃなくて。 あの人形のことが気になって、荷物の箱を見せてほしいと母に頼みました。
「事故の時の荷物は、これで全部だって、警察の人が言ってたわよ」
母が見せてくれた箱の中に――
あの人形は、ありませんでした。
「良かった……いなくなった……」
ホッとして、ゆっくり左側に頭を向けると。
枕元に、あの人形が寝ていました。
体中が痛いのも忘れて、私は人形から離れようともがきました。 でも、思うように体が動きません。
「おかぁさん! これ! この人形……!」
必死に訴える私に、母が答えました。
「そうよ、これ。やよいが病院に運ばれるとき、ものすごい力で抱きしめてたんだって。先生も看護師さんも、引き離すのに苦労したって言ってたわよ。よっぽど大事なものなんだと思って、お母さん、枕元に置いといてあげたの」
私は、もう諦めました。
これ以上この人形を捨てようとしたら、今度こそ殺されるかもしれない。
そう思って――
これからはずっと、この人形と一緒に暮らしていこうと思っています。


