神奈川県 主婦 高橋弘子(59)(仮名)
一昨年の春のことです。
お隣のお宅に、3人家族が引っ越して来られました。
ご挨拶にいらっしゃったのは、とても感じの良いご主人と、清楚な奥さんと、4歳になるという、とても可愛らしい娘さんでした。
しばらくすると、お隣のお宅から、かすかにピアノの音が聞こえてくるようになりました。
お世辞にも上手とは言えないので、たぶん、娘さんが弾いているのでしょう。
それから決まって、平日の2時頃になると、ピアノの音が聞こえるようになりました。
きっと先生が来て、教えているのでしょう。
我が家の子供達はもうとっくに成人しましたが、小さい頃にピアノを習わせていたので、拙い音色が懐かしく、微笑ましく感じました。
初めは”曲”とも言えないような、練習用の”音”ばかりでしたが、3ヶ月もすると、キラキラ星など、ちょっとしたメロディーが聞こえてくるようになりました。
音がつっかえると「あ、おしい!」と思ったりして・・・
そんな日が半年ほど続いていたのですが、ふと、ここ数日、ピアノの音が聞こえて来ない事に気が付きました。
子供の習い事など、長く続かないことも多いので
「もう、イヤになって、辞めちゃったのかな?」
と、よその家のことながら、少し残念に思っていました。
それから何日か経ったある日のこと、家の外を掃除していると、しっかりした、低く重いピアノの音色が聞こえてきました。
「お母さんでも弾いているのかな? それにしても、随分暗い曲を弾くんだな・・・」
そんなことを思いながら掃除を続けていると、しばらくしてピアノの音が止み、お隣の奥さんが出て来ました。
久しぶりに見たその顔は痩せこけ、顔色も悪く、あまりにも異様だったので、私は余計なおせっかいとは思いつつ、
「こんにちは。奥さん、どうしたの? 顔色があまり良くないみたいだけど、大丈夫?」
と声をかけました。
すると、奥さんは重々しく口を開きました。
「実は・・・娘が今、入院しているんです。 それで少し・・・」
やっぱり聞くべきではなかったかも・・・と、私は少し後悔しました。
その雰囲気から察すると、かなり重い病気なのだろうと思われました。
「知らずにごめんなさい。早く良くなるといいですね」
そう言って、その日は家に戻りました。
その翌日、そのまた翌日も、同じ時間帯になると、あの陰気な重い曲が聞こえてきました。
「この曲、どこかで聞いたことがあるのよね・・・」
私は気になって、ネットで調べてみると、それはショパンの曲だということが分かりました。
ショパン ピアノソナタ 第2番 変ロ長調
その曲名が「葬送」だと言うことが分かると、背筋が寒くなる思いがしました。
そんな曲は、自分の娘が入院中に奏でる曲ではないはずです。
気味の悪いその曲は、その後何日も、同じ時間になると聞こえてきました。
数日経ったある日の夕方、家の外がにわかに騒がしくなり、「御霊燈」と書かれたちょうちんに明かりが灯りました。
あの可愛らしかった娘さんが、幼くして病気で亡くなったというのです。
お通夜の席で悲しみに暮れるご両親に、私はかける言葉も見つかりませんでした。
それから何ヶ月か経って、あれ以来ほとんどお見かけすることがなかったお隣の奥さんに、家の前でバッタリお会いしました。
あれ以来、ピアノの音を1度も聞いていなかったので、私はまた余計な事とは思いつつ、何となく話の流れの中で、
「もうピアノは弾かれないんですか?」
と聞いてしまいました。
すると、お隣の奥さんは、
「私は・・・ピアノは弾けませんから・・・」
と、弱々しく答えました。
・・・? ということは・・・?
あの時の「葬送」は、いったい誰が弾いていたのでしょうか。