東京都 久田美穂さん(20代・会社員)の不思議な体談験
今、私の部屋の片隅には、小さな人形が座っています。
フランス人形みたいな、裾の長いドレスを着た女の子の人形です。もう二十年近く、ずっと私のそばにいます。
一人暮らしの部屋にしては、正直言うと浮いています。友達には「なにそれ、可愛い」って言われることもあれば、「ちょっと怖いんだけど」って真顔で言われることもあります。
どちらの感想も、間違ってはいないと思います。
私がこの人形をもらったのは、生まれてすぐのことでした。買ってくれたのは、父方の祖母です。初孫だった私を、祖母は本当に可愛がってくれました。物心ついた時には、もうこの人形は私の隣にいて、親友みたいな存在でした。
でも、その祖母は、私が小学二年生のときに病気で亡くなっています。
亡くなる前日、私はいつものように、あの人形を抱えて、入院していた祖母のお見舞いに行きました。祖母はベッドの上から私を抱き寄せて、人形の頭を撫でながら、こう言ったんです。
「おばあちゃんは、いつでも浩美ちゃんの味方だよ。ずーっと、あなたのことを見守っているからね」
優しい顔で、そう笑ってくれました。
その翌日、祖母の容体は急変し、そのまま息を引き取りました。
小学二年生の私にとって、これは本当に大きな出来事でした。当時のことは正直、あまり覚えていないんですが、母によると、それから一ヶ月以上、学校に行っている時間以外は、ずっとあの人形を抱きしめていたそうです。
やがて私も成長して、人形で遊ぶことはなくなっていきました。人形は部屋の片隅にちょこんと座っているだけの存在になっていきましたが、ふと目に入るたびに、大好きだった祖母のことを思い出させてくれる。そんな存在ではあり続けました。
◆
十八歳の春、私は東京の大学に合格しました。
一番の志望校だったので、本当に必死で勉強しました。そして、せっかくだから一人暮らしがしたい、と両親に頼み込みました。
父も、同居していた祖父も、女の子の一人暮らしなんて危ない、と猛反対でした。でも、家の中で一番強い母が味方についてくれて、東京近郊に1Kのマンションを借りてもらえることになりました。
古い建物でしたが、駅から近くて通学に便利で、オートロックもついている。不動産屋さん曰く、一人暮らしの女性に人気の物件、とのことでした。
ユニットバスと、二畳ほどのキッチン。廊下の奥に六畳の部屋があって、リフォーム前は押し入れだったという、引き戸式の大きなクローゼットもついていました。初めての一人暮らしには、十分すぎるくらいの環境でした。
◆
一人暮らしを始めて半年ほど経った頃、実家の母から荷物が届きました。
お米、タオル、レトルト食品……そういうものに混じって、実家に置きっぱなしにしていた、あの人形が入っていたんです。
「何よこれ。もう子供じゃないっつーの」
思わず口をついて出ました。久しぶりに見たその人形は、なんだか、置いていかれたことを拗ねているような、少し寂しげな表情に見えました。
「一人暮らしじゃなくなっちゃうけど……まぁ、いっか。じゃあ、また一緒に暮らそう。あなたの場所は……ここね」
そう言って、テレビ台の隅に、実家にいた頃と同じように座らせてあげました。
◆
それから少し経って、ゼミの合宿がありました。関東近郊の湖畔に、二泊三日で行くというものです。
そこで私は、生まれて初めて男性から告白される、という経験をしました。
相手はゼミの二学年上の先輩です。前から少し気になってはいたんですが、友人から「かなりの遊び人で、何人もの女の子と同時に付き合っている」という噂を聞いていて、半分諦めて、意識しないようにしていた人でした。
その彼が、私に「付き合ってほしい」と言ってきたんです。
内心、どうせ他にも付き合ってる人がいるんでしょ、と疑う気持ちもありました。でも、まっすぐに私の目を見て話す彼を前にすると、疑う気持ちより信じたい気持ちの方が勝ってしまって。結局、お付き合いすることになりました。
そんな彼が、初めて私の部屋に遊びに来ることになったんです。
◆
前日から、彼の好物をこっそりリサーチして仕込みをして、普段は絶対にやらないところまで掃除をして。ほとんど眠れないまま、約束の日を迎えました。
チャイムが鳴って、モニターで顔を確認して、平静を装いながらオートロックを解錠。玄関を開けて、彼を招き入れました。
部屋に上がってきた彼の様子から、なんとなく、こういう場所には慣れているんだろうな、というのは伝わってきました。もちろん、そんなこと口には出せませんでしたけど。
とりあえずウェルカムドリンクを出して、他愛のない話をしていた時です。
彼がふっと表情を曇らせて、テレビ台の片隅を指差しました。
「あれ、何? なんかこっち見られてるみたいで、怖くない?」
指の先にあったのは、あの人形でした。
「あ、ごめんね」
私はすぐに人形を手に取って、廊下の奥のクローゼットの中、棚の上にしまいました。
それからしばらく、また他愛のない話をしていたと思います。
不意に、部屋の奥から音がしました。
ゴソゴソ……ガタン。
見ると、さっきちゃんと閉めたはずのクローゼットの引き戸が、少しだけ開いていました。その隙間から、片付けたはずの人形が、倒れた状態で覗いていたんです。目から上だけが、こちらを見ていました。
彼もそれには気づいていたようでした。でも、何も言いませんでした。
私は特に気にしないふりをして、夕飯の支度のためにキッチンに向かうついでに、人形を棚の上に座らせ直して、もう一度クローゼットの戸を閉めました。
しばらくして、部屋の方から声がしました。
「うわっ!」
キッチンから覗くと、彼は尻餅をついたような格好で固まっていました。視線の先には、クローゼットの外に落ちている、あの人形。
彼が言うには――
テレビを見ていたら、また背後でガタガタ音がした。振り返ると、クローゼットの人形がまた倒れていて、少し開いた隙間からこっちを覗いていた。
怖くなって、もう一度戸を閉めようとしたけれど、何かが引っかかるみたいで、うまく閉まらない。
思い切って一度戸を開け直して、力いっぱい閉めようとした、その瞬間。
人形の両手が、戸の隙間から出てきて。
戸を押さえながら、クローゼットの中から、飛び出してきた――
というんです。
結局、彼は私が丸一日以上かけて用意した料理に、一口も手をつけないまま、帰っていきました。
◆
彼が帰った後、私は人形に向かって、「バカ、あなたのせいで彼、帰っちゃったじゃん」って、思わず声を荒げてしまいました。
人形は、いつもと変わらない、優しい微笑みを浮かべたままでした。
それ以上、何も言えませんでした。私はまた、テレビ台の脇に、人形をちょこんと座らせました。
その後、大学で彼と顔を合わせても、どこかよそよそしい空気が流れるようになって、私たちの関係は、自然消滅というかたちで終わりました。
これは後になって聞いた話ですが、彼はやっぱり、複数の女の子と同時に付き合っていたそうです。彼を取り合って、女の子同士のトラブルも絶えなかった、と。
もしかしたら、あれは全部、祖母からの警告だったのかもしれません。
あの人形は、今でも私の部屋の片隅で、ちょこんと座っています。


