広島県 清水勝さん(20代・会社員)の恐怖体験談
今考えれば、全てが勘違いというか、若気の至りでした。 瀬戸内のド田舎から、一発当ててやろうと、叶うはずもない夢を見て、都会のホストクラブの門を叩いたのは、今から10年ほど前のことです。 運良く借りられたあの部屋に、あんな理由があったなんて、当時の俺には見当もつきませんでした。
後先考えず、家出同然で実家を飛び出してきた俺には、お金も、住む場所もありませんでした。しばらくの間、ホームレス同然の暮らしをしていました。
そんな時、ダメ元で飛び込んだホストクラブで、運良く採用が決まりました。当時、その店のNo.2だったS先輩が、俺の窮状を聞いてくれて、こう言ってくれたんです。
「俺の部屋、家具家電付きで貸したるわ」
いわゆる又貸しです。それなら敷金も礼金も、引っ越し費用もかかりません。しかも家賃はタダ同然だというのです。
若かった俺は、天にも舞い上がるような気持ちでした。その好条件に、何の疑念も抱くことなく、S先輩のご厚意に甘えることにしました。
「狭〜いマンションやで」
S先輩からは、そう聞いていました。でも、田舎者の俺には、見たこともないような高級マンションでした。広々を通り越して、逆に居場所に困るほど広い、豪華な部屋です。
家具やベッド、テレビはもちろん、ちょっとした小物に至るまで、さすがは一流店でNo.2まで成り上がったS先輩らしく、どれも高価そうなものばかりでした。
部屋を借りる際の条件は、たったひとつだけ。
ーーベランダ側のカーテンは、絶対に開けないことーー
それ以外は、何をしても、何を使ってもいい。そう言ってもらえたので、何の問題もないと思っていました。
雑誌の記事でしか見たことのなかった、憧れのセレブのような生活。それが何の苦労もなく、あっという間に自分の手に転がり込んできたんです。
そりゃ、勘違いもしますわな。
偽セレブ生活が3週間ほど経った、ある日の昼下がりのことでした。
フカフカのベッドから這い出して、昨日の深酒の洗礼と戦いながら洗面所へ向かおうとしたときです。
いつもベッドの脇に置いてある、愛用の高級スリッパを履くと――
グチャッ。
水が、溢れ出てきました。
「げっ! なんじゃこりゃ!!」
今朝までの記憶がほとんどなかったので、大方、酔って帰って自分で濡らしたんだろうと思いました。
実は、この部屋で暮らし始めてから、それ以外にも、記憶にない妙な現象が度々起こっていました。
使ったこともないまな板に、包丁が突き刺さっていたり。
靴箱の中の靴が、全部逆さまに揃えてあったり。
先輩に内緒で泊まりに来た彼女の歯ブラシが、真っ二つに折れて洗面所に転がっていたり。
ほぼ毎日、数え上げればキリがないくらいでした。でも、それも全部、酔って帰ってきた自分の仕業だろう、くらいにしか考えていなかったんです。
びしょ濡れのスリッパをつまんでベランダまで持って行き、手で絞って干そうと思ったとき――
うっかり、あの唯一の約束を破ってしまったことに気づきました。
ーーベランダ側のカーテンは、絶対に開けないことーー
「まぁ、バレりゃせんだろう。それより、こんなに見晴らしがいいのに、カーテン開けないなんてもったいないな」
眼下に広がる町並み。遮るものが何もない、地上30階からの景色でした。日当たりの良いベランダで大きく深呼吸した、その瞬間です。
ゾクッと、寒気が走りました。
嫌な気配は、どうやらベランダの真下から湧き上がってくるようでした。
目の眩むような高さに、手すりを両手でしっかり掴みながら、恐る恐る下を覗いてみると――
1軒の、赤い屋根のアパートが目に入りました。
さらに目を凝らすと、そのアパートの窓から、豆粒のように小さな、でも間違いなく人の顔が、じっとこちらを睨み返してきていました。
女性でした。
赤い服を着たその人の周りには、100メートル離れたこの場所から見ても分かるくらい、真っ黒な煙のようなものがまとわりついていました。髪はボサボサで、尋常じゃない雰囲気が、ビシビシと伝わってきます。
あまりの不気味さに、すぐに顔を引っ込め、部屋へ戻ろうとしました。
そのとき、分厚い遮光カーテンの裏側に、何枚もの御札が貼られているのが見えたんです。
その日2回目の「げっ! なんじゃこりゃ!!」でした。
慌てて部屋の中に入り、カーテンを閉めます。
「何か・・・ あまり良くないことが起き始めてる気がする・・・」
そんなことを考えながら急いで身支度をして、出勤のために部屋を出ました。
出勤後、店の中を掃除していると、S先輩が声をかけてくれました。でも、カーテンを開けたことがバレたらマズいと思って、御札のことは聞けませんでした。
その日も客入りは盛況でした。明け方、アフターの先輩方を見送ってから店内を片付け、フラフラのまま帰路につきました。
マンションのエントランスまで、あと少しというところで、昨日ベランダから見た、あの不気味な女のことがふと脳裏をよぎりました。
俺は、引き寄せられるように――
エントランスへ向かう道の一本手前で右に曲がり、ベランダ側の道を歩きながら、あの赤い屋根のアパートを探しました。
少し歩いて、自分の部屋のベランダの真下に差し掛かると、すぐに見つかりました。
近くで見ると、まるでお化け屋敷でした。とても人が住めるような状態ではありません。どこからどう見ても、廃屋です。
ふと横を見ると、取り壊し工事の予告の看板が出ていました。やはり、人は住んでいないようでした。
「じゃあ昨日、あの2階の窓からこっちを睨んでた女は、何だったんだ?」
見間違いか。酒が残っていたのか。そんなことを考えながら、いつの間にか部屋に帰っていました。
でも、いつも出迎えてくれる、お気に入りの高級スリッパがありません。
「あ、そうか。 ベランダに干しっぱなしだ」
今度はカーテンを開けないよう、下からくぐってベランダに出ました。
カラカラに乾いたスリッパを回収して、そのまま部屋に戻ろうと思いました。でも、何となく――あのアパートが、というより、あの赤い服のボサボサ女が気になって、そっと階下を覗いてみたんです。
両手で手すりを持って、ゆっくりと顔を上げていくと。
地上30階のベランダの外側から――
俺と同じように両手で手すりを持った、あの女が。
俺の目の前で、こちらを覗き込んでいました。
「ひゃーーーーーーーっ!!」
人生で初めての、女の子みたいな悲鳴を上げながら、部屋の中に転がり込みました。足がもつれて何度もひっくり返りながら、俺はマンションの外へ逃げ出しました。
「もうあの部屋には戻れない・・・ 今日はどっかのサウナか満喫にでも行って、ちょっと寝るか・・・」
いつの間にか、店の近くをフラフラと歩いていました。そこへ、たまたま通りかかったJ先輩に声をかけられたんです。
J先輩は俺の様子を見て、何かあったのかと心配してくれました。俺は、事の一部始終を話しました。
J先輩は、深いため息をついたあと、S先輩のストーカー被害の話をしてくれました。
2年ほど前のことだそうです。
S先輩にハマった女性は、当初は普通のOLでした。でも、いわゆる「ホス狂い」になり、S先輩に貢ぐために借金を重ね、風俗で働くようになったといいます。
まぁ、そこまでは、よくある話です。
その後、仕事の影響か体を壊し、精神を病んで働けなくなりました。それでもS先輩のことが忘れられず、とうとう彼女は、S先輩のストーカーになってしまったそうです。
でも、S先輩は、金を落とさない客には一切興味がありません。会いたい一心で追いかけてくるその女性を、ストーカー行為で訴えました。
判決は、「原告――つまりS先輩の100メートル以内に接近することを禁止する」というものでした。
それでも先輩の近くにいたい。できるだけそばで暮らしたい。彼女が考えた作戦は――
先輩の部屋から、ちょうど真下100メートルのアパートを借りて、そこに移り住むことでした。
その後、そのアパートで倒れ、まだ20代半ばで孤独死した彼女が発見されたのは、死後1ヶ月以上経ってからのことだったそうです。
「良かった・・・ 俺じゃなかった・・・」
何かの拍子に、あのボサボサ女に取り憑かれていたんじゃないかと心配していた俺は、その話を聞いて、ほっとしました。それと同時に、S先輩がずっとNo.1になれない理由が、ちょっとだけ分かったような気がしました。
厳しい世界に耐えられず、俺がホストを辞めたのは、それから間もなくのことでした。


