東京都 自営業 佐藤瑛太(47)(仮名)
私の家は、曽祖父の代から続く地主です。
そう言うと羽振りが良さそうに聞こえるかも知れませんが、社長である私の父はあまり商売が得意ではありませんでした。
父は新しく事業を始めるたびに借金を増やし、それを精算するために、都内にあった土地を少しずつ切り売りしてきました。
その結果、最終的に残ったのは自宅の敷地と、少し離れたところに120坪、台数にして15台分ほどのコインパーキングを営む土地だけになってしまいました。
それでも特に貧乏というわけではなく、その上私は一人っ子ですので、随分と甘やかされて育ってきましたから、むしろ恵まれた家に生まれ育った、ということになるのでしょう。
大学卒業後、私は都内の会社に入社し、休みの日には父の会社を手伝いながら、実家で両親と一緒に生活していました。
私は父が45歳の時に授かった、いわゆる「遅い子供」でしたので、私が40になる頃には、父は85歳と言う高齢になります。
最近父は大きな病気をしたこともあり、父の中で私に会社や財産をどうやって受け継がせるかを、現実的に考え始めていた時期だったのかも知れません。
夕食後に私をリビングに呼び出した父は、何やらかしこまった雰囲気で話し始めました。
「瑛太に話しておかなきゃいかんことがある」
そう言って父が初めに話してくれたのは、経営しているコインパーキングのことでした。
実は、以前からこの駐車場の7番に駐車した車だけが、度々いたずらの被害に遭い、何度か警察を呼んだこともありました。
なぜか、それ以外の場所で同様の被害は一切ありませんでしたので、数年前から7番だけ「駐車禁止」の立て札を立て、誰も使えないようにしていたのです。
そもそも、多少の節税にはなるにせよ、時間貸しの駐車場ではさほど大きな利益にはなりません。
かねてより、父はなぜこの土地でマンションやアパート経営に乗り出さないのかといった疑問があっただけに、コインパーキングの件は、一度じっくり話し合っておきたかったことでもありました。
ところが、私の意に反して父が語り始めたのは、コインパーキングがある土地にまつわる、今から80年以上も前の昔話でした。
戦時中、今の駐車場がある場所には、私の曽祖父の本家があったそうです。
その家の庭には大きな井戸があり、炊事、洗濯はもちろん、曽祖父は近所の人たちにも、その井戸を自由に使わせていたそうです。
また、夏の暑い日には、曽祖父は近所の子供達と一緒に、冷たい井戸水で水浴びをするのが楽しみだったそうです。
そんな折、曽祖父たちを大きな空襲が襲いました。
焼夷弾の炎で家を焼かれ、火だるまになったままウロウロ歩き回る人、熱さと痛みで悲鳴を上げながら転げまわる人、胸に子供を抱いたまま背中に火がついている人・・・ 炎の壁に囲まれて逃げ場を失った何十人もの人々が、水を求めて曽祖父の家の井戸に殺到し、そのうち何人もの人が、次々とその井戸に押されて落ち、あるいは熱さから逃れるために、自ら飛び込んで亡くなったそうなのです。