千葉県 八巻 健一(64)
当時の私は、定年退職後の有り余る時間を、どう過すかに腐心していました。
約40年間、がむしゃらに働いてきた私には、これといって趣味もなく、かといって何か新しい趣味を持とうという気にもなれず、退屈な時間だけがただゆるゆると過ぎて行く、そんな毎日でした。
このままいつまでも無駄な時間を過ごしているわけには行かない。
走るのは苦手だが、ウォーキングくらいならできるだろうか。
考えるばかりで何一つ実践することがないままだったある日、何気なく新聞に入っていた求人広告に目をやると、こんな一文が目にとまりました。
「定年退職後の臨時収入に! お散歩がてら、ポスティングでお小遣いを!!」
何とも魅力的な提案ではありませんか!
ただ歩くだけでは一銭にもなりませんし、きっとすぐに飽きて辞めてしまうでしょう。
しかし、ポスティングなら、これはれっきとした「仕事」です。
嫌になっても、途中で逃げ出すこともできません。しかも健康に良い。
考えてみれば、40年間働き詰めだった私に残っているスキルは、仕事に対する責任を貫き通すことくらいです。
家内にも相談してみたところ、退職後にまるで抜け殻のようになっていた私を随分心配していてくれたようで、私がアルバイトをすることには大賛成してくれました。
翌日、求人広告に掲載されていた会社に早速電話をしてみると、最初だけ電車で2駅ほどの場所にある雑居ビルに履歴書を持参して、そこで10分ほどの質疑応答と仕事内容の確認、要するに簡単な面接を受ける必要があるとのことでした。
その日のうちに面接を終え、あっさりと登録を済ませた私は、その帰りに動きやすいジャージと運動靴を購入し、準備万端で最初の仕事を待っていました。
仕事自体は、自宅に郵送されてくるポスティング用のチラシを、期限内に近隣の住宅に配ってまわるという、とても簡単なものです。
面接からわずか2日後、5000枚ほどのチラシが自宅に届きました。
一見してかなりの量で、期限内に全て配れるだろうかと一抹の不安がよぎりましたが、「いざとなったら私も手伝ってあげるわよ」と言う家内のありがたい申し出に奮起して、早速その日からポスティングを始めました。
幸い、私の家は住宅街でしたので、初めての割には順調に数をこなすことができましたが、同じ家に連日同じチラシを投函することは避けるというルールもあり、2日目、3日目と日が進むにつれ、重いチラシを持って遠くまで足を伸ばす必要が出てきたことは、少々誤算でした。
それでも、5日間で5000枚のノルマは達成し、初めてにしては上々の滑り出しです。
その後、あまり間を空けると嫌になってしまうと考え、私はすぐに次の仕事を依頼しました。
それから数日後、今度は6日分で、前回より少し多い8000枚のチラシが送られてきました。
「今度は配る範囲を、少し広げないと駄目かな」
その時ふと頭に思い浮かんだのは、前回は行かなかったN町の団地でした。
N町は、私の家から徒歩で20分ほどの場所にあり、少し古い団地群を中心に、商店街やアパート、一軒家が立ち並ぶ、昔ながらの住宅地です。
最近のマンションは、ポスティング禁止の張り紙や、中には「許可なくエントランスに侵入した場合は直ちに警察に通報します」という脅迫めいた張り紙までされていることが多く、なかなか思うに任せません。
でも、その団地には確か1階に集合ポストがあり、なおかつ周りは古いアパートが多いので、ポスティングにはうってつけです。
前回、その界隈に行かなかったことを後悔しながら、その日私は少し多めにチラシを持って、N町へと向かいました。
団地の敷地内に入り、早速A号棟、B号棟、C号棟と順調に配り進むと、案の定、手持ちのチラシはみるみる減っていきました。
「もう少し多めにチラシを持ってくるべきだったかな…」
そんなふうに考えながら、最後のJ号棟まで来たときでした。