「ほんの少しだ」と魔が差し、僕は彼女を、見知らぬ女性を、ノーヘルのまま後部座席に乗せてしまいました。
彼女が後ろに乗った瞬間、なびく髪から香水のような・・・線香のような・・・なんとも言えない良い匂いが、僕のヘルメットの隙間から入ってきました。
「大丈夫・・・ ですか? つかまってて・・・ ください・・・ ね」
たぶん、少し年上で初対面の女性に対する僕の微妙な距離感に、彼女は「・・・はい・・・」と、消え入りそうな声で答えながら、あろうことか僕のウエストに、すーっと両腕を回してきたんです!
彼女の頬と胸の感触が、僕の背中全体に広がりました。
「バイク・・・ 買ってヨカッターッ!!!!!」
僕は心の中で叫びました。
早まる鼓動が彼女に伝わらないことを祈りつつ、僕がバイクを発進させようとしたその時、彼女は突然、右手を僕の右手の上に置き、左手を僕の左の手のひらの下から滑り込ませてきました。
突然のことに驚いた僕は、肩越しに彼女を見ようとしたのですが、顔を背中にくっ付けているので、表情は見えません。
すると、彼女はものすごい力で右手のアクセルを全開にして、クラッチを握る僕の左手をこじ開けてきたのです!
「よせ! やめろ!! そんなことしたらバイクごとひっくり返るぞ!!」
背中越しに彼女の「ケケケケッ!」という不気味な笑い声が伝わってきた時、僕は彼女を乗せたことを心から後悔しました。
次の瞬間、彼女の左手はクラッチを握る僕の左手をあっさりと弾き、勢いよく前輪が跳ね上がったバイクは、地面に叩きつけられた僕の上に降ってきました。
その後、気が付いた時には、僕は病院のベッドの上にいました。
隣で母が、警察官と事故の状況などを話し合っていたようですが、僕は全身の痛みで、体を起こすどころか、話すこともできませんでした。
数日後、やっと会話ができるようになってから、事故の状況を伝えたのですが、両親も、ひき逃げの可能性を疑っていた警察も、僕の話は全く信じてくれず、結局「初心者ライダーにありがちな、クラッチ操作のミスによる自損事故」という結論に落ち着きました。
そりゃそうです。
ひっくり返っていたのは、僕とバイクだけだったんですから。
でも、一番不思議なのは、一目惚れまでしたはずの彼女の「顔」が・・・ 全く思い出せないのです。
綺麗で可愛くて、好みだったはずの彼女の顔が・・・ いくら考えても、一切思い出せません。
でも、一つだけ思い出したことがあります。
バイクでひっくり返る前に、僕の背中で彼女はこう言ったのです。
「ケケケケッ! 向こうの入り口は、そっちじゃないよ!」
その言葉と声は、今でも耳に残っています。
『向こうの入り口』・・・それは向こうの世界、つまりあの世の入り口、と言う意味だったのかもしれません。
あの道ですか? あれ以来、二度と通ってません。