黒狐の面

岡山県 農業 内藤裕美(36)(仮名)

私が農業を営む主人の元に嫁いだのは、今から8年前のことです。

主人は古くから続く農家の3代目で、私とは同じ小学校からの同級生でした。

結婚を機に、主人の両親と祖父母が暮らす母屋の隣に新居を構え、その後2人の子供にも恵まれ、仕事と子育てに忙殺されながらも、幸せな毎日を送っていました。

大きな母屋の裏手には、かなり古く大きな蔵があります。

蔵の中には古い農機具などが少し置かれているだけで、普段は誰も出入りすることはありませんでした。

ある日、不要になったストーブを蔵の中へ片付けに行った主人が、何か古い箱のような物を嬉しそうに持って出てきました。

ホコリで真っ白になった蓋に息を吹きかけ、手で払って箱を開けてみると、中から黒光りする狐のお面が出てきました。

近くにいた義理の父に聞いてみると、舞台やお芝居で使う「咥え面」でだそうで、以前はお祭りの際、これを被って踊っていたのだそうです。

私達が生まれる頃までは、この辺りでも、近くの神社で盛大な祭事が催されていたそうですが、過疎化が進み、年々規模が縮小され、かつて大勢いた氏子も減り、今では太鼓の叩き手も踊り手も、いなくなってしまったということでした。

「咥え面」というのは、能楽などで“早変わり”をしたり、手を使わずに装着できるよう、お面の裏側に口で咥えるための木の出っ張りが付いているお面のことです。

手に取ってよく見ると、そこには以前使っていた人のものと思われる歯型が付いていました。

それをあろうことか、主人が咥えようとしたので、私は 「やだ! 汚い! やめて!」 と全力で制止しました。

それでも主人は嬉しそうに 「ウチの玄関に飾ろうよ」 と言うのですが、私は何だか気味が悪く感じたので、そのお面を蔵の中に戻してもらうよう、主人に言いました。

その日の夜のことです。

主人が真夜中に布団から這い出て、部屋から出ていきました。

時計を見ると、12時を少し回っていました。

「トイレかな?」

そう思った私は、翌朝も早いので、そのまま眠り続けました。

ふと気がつくと、まだ主人が布団に戻っていません。

時計を確認すると、夜中の2時過ぎです。

「具合でも悪いのかな?」

私は少し心配になり、起き上がってトイレやキッチンを見て回りましたが、どこを探しても見当たりません。

「もしかして」と思い、蔵の方へ行ってみると、少しだけ開いた蔵の戸の隙間から、薄っすらと光が漏れていました。

近付いて行くと「ピーヒャラ ドンドコ チンチキ シャンシャン ピーヒャラ ドンチキ シャン・・・」と、祭ばやしのような音が聞こえてきます。

「まったく・・・こんな夜中に何してるの!?」

さすがの私も少しイライラしながら、蔵の戸の隙間から中の様子をうかがうと、異様な光景が目に飛び込んできました。

天井から真っ直ぐに降りてくるスポットライトに照らされた主人が、蔵の中央で踊っていたのです。

もちろん、蔵の中にそんな照明はありません。

しかも、主人は、あの黒狐の面を被り、見たこともない着物を着て、軽やかに舞い踊っていました。

時にクルクルと回転し、時に流麗に手足を操り、かと思うと急に宙返りをしながら踊っています。

ちなみに、主人は100キロ近くある巨漢です。

そもそも身体が大きいだけで、スポーツなどとは無縁で、踊りの経験はもちろん、軽やかに宙返りすることなど、できるはずがありません。

その主人が、今、目の前で、まるで体操選手かフィギュアスケートの選手のように、クルクルと華麗に踊っているのです。

スポットライトの周りの暗闇の中には、たくさんの小さな人影が、楽器を奏でたり、手拍子をしたりして、主人を取り囲んでいます。

あまりに軽やかで鮮やかで、美しい踊りに、私は夢見心地になり、しばらくの間、見入ってしまいました。

「あ! スマホ持って来れば良かった・・・」

そう思った私は、一旦家に戻ろうかと考えた瞬間、お囃子が止み、静寂が訪れると、主人は踊りを止めて、おもむろに何かを喋り始めました。

「コノ ノチモ ヨク コノ クニヲ オサムラネバ ナラヌゾ ヨク オサムラネバ ナラヌゾ」

「あれ? 『咥え面』を咥えてるはずなのに、どうしてあんなに流暢に喋れるんだろう?」

私は不思議に思いました。

何度か同じセリフを繰り返すと、スポットライトの明かりがスーッと消えました。

「まずい! こっちに来る!」

そう思った私は、一目散に自宅へ走り、布団の中に潜り込み、寝たフリをして、主人が戻ってくるのを待っていましたが、いつの間にか眠ってしまいました。

翌朝、隣に寝ている主人の 「なんなら! こりゃ!」 という叫び声で目が覚めました。

主人の足と布団の足元が、泥で真っ黒に汚れていたのです。

「こりゃ・・・どねぇなっとるんなら・・・ちょっと濡れ雑巾か何か、持ってきてぇや」

主人にそう頼まれた私は、雑巾を絞りながら、昨日のことを話そうかとも考えましたが、今はその時ではないような気がして、話さずにいました。

その後、主人は何を思い立ったのか、ある日突然、町議会議員に立候補し、当選しました。

今では 「県議会に出て、いずれ国政をやる!」 と息巻いています。

そんな事を言うタイプの人ではなかったのですが、もしかして、あの時の事が、何か関係しているのでしょうか?

ちなみに今、あの黒狐のお面は、リビングに大切に飾ってあります。