神奈川県 高橋弘子さん(50代・主婦)のちょっと切ない恐怖体験談
お隣から聞こえてくる娘さんのピアノの音を、私はずっと、微笑ましく思っていました。
でも、今となってはあのことを思い出すたびに、少し落ち着かない気持ちになります。
一昨年の春、お隣に3人家族が引っ越していらっしゃいました。
ご挨拶に来られたのは、感じの良いご主人と、清楚な奥さん、それに4歳になるという、とても可愛らしい娘さんでした。
しばらくすると、お隣から、かすかにピアノの音が聞こえてくるようになったんです。
お世辞にも上手とは言えない、たどたどしい音でした。 きっと娘さんが弾いているんでしょう。
決まって平日の2時頃になると、聞こえてきました。 たぶん、先生が来て教えているのだと思います。
うちの子供たちはもうとっくに成人しましたが、小さい頃、ピアノを習わせていたことがあって。 だから、あの拙い音色が、懐かしくて、なんだか嬉しくもありました。
初めのうちは、曲とも言えないような練習用の音ばかりでした。 それが3ヶ月もすると、「キラキラ星」なんかの、ちょっとしたメロディーになってきて。
音がつっかえると、「あ、惜しい」なんて、こっちまでハラハラしたりして。
そんな日が、半年ほど続いていました。
ふと気づくと、ここ数日、ピアノの音が聞こえなくなっていました。
「もう、イヤになって辞めちゃったのかな」
子供の習い事なんて、長く続かないこともよくあります。 よその家のことながら、少し残念に思っていました。
それから何日か経った日のことです。
家の外を掃除していると、ピアノの音が聞こえてきました。
でも、いつもとは違う音でした。
しっかりとした、低く、重たい音色。
「お母さんでも弾いているのかな。それにしても、随分暗い曲だな……」
そんなことを思いながら掃除を続けていると、しばらくして音がやみ、お隣の奥さんが外に出てこられました。
久しぶりに見たその顔は、痩せこけていて、顔色も悪くて。
あまりに様子が違うので、余計なお世話とは思いながらも、声をかけずにはいられませんでした。
「こんにちは。奥さん、どうしたの? 顔色があまり良くないみたいだけど、大丈夫?」
奥さんは、重い口を開きました。
「実は……娘が今、入院しているんです。それで少し……」
聞くんじゃなかった、と少し後悔しました。
その様子から察するに、かなり重い病気なのだろうと思いました。
「知らずにごめんなさいね。早く良くなるといいですね」
そう言って、その日は家に戻りました。
翌日も、その翌日も、同じ時間帯になると、あの陰気な、重たい曲が聞こえてきました。
「この曲……どこかで聞いたことがあるのよね」
気になって、ネットで調べてみました。
ショパン。 ピアノソナタ第2番、変ロ長調。
その曲名を見て、私は、すっと血の気が引くような感覚を覚えました。
――「葬送」。
そんな曲を、自分の娘が入院している最中に弾く人が、いるでしょうか。
気味の悪いその旋律は、その後も何日も、同じ時間になると聞こえてきました。
数日経った、ある日の夕方のことでした。
家の外が、にわかに騒がしくなりました。
見ると、「御霊燈」と書かれた提灯に、明かりが灯っていました。
あの可愛らしかった娘さんが、幼くして、病気で亡くなったというのです。
お通夜の席で悲しみに暮れるご両親に、私は、かける言葉が見つかりませんでした。
それから何ヶ月か経った、ある日のことです。
あれ以来、ほとんどお見かけすることのなかったお隣の奥さんと、家の前でばったりお会いしました。
そういえば、あの日以来、ピアノの音を一度も聞いていません。
また余計なことだとは思いながら、話の流れで、つい聞いてしまいました。
「もうピアノは弾かれないんですか?」
奥さんは、弱々しく、こう答えました。
「私は……ピアノは弾けませんから……」
……え?
だとしたら。
あの日、繰り返し聞こえていたあの「葬送」は――
いったい、誰が弾いていたのでしょうか。


