岡山県 藤井愛さん(30代・主婦)の恐怖体験談
私が小学校2年生の時の体験談です。 あの日、山道でひとりの男の人とすれ違いました。 ただ、それだけの話のはずだったんです。
当時、私は岡山県の山の中で暮らしていました。隣の民家まで優に200メートルはあるような、正真正銘の田舎です。
学校に通うのも、行きは下り坂だから40分ほどで着くんですが、帰りは登り坂を1時間近くかけて、毎日歩いていました。
ある日、学校から帰った私は、親戚の家までお使いを頼まれました。
親戚の家は、私の家の裏手から伸びる一本道を、川沿いに20分ほど歩いたところにあります。
秋も深まる頃の夕方でした。太陽が少しずつ傾いて、山の陰に半分ほど隠れると、あたりは一気に暗くなります。
できるだけ明るいうちに帰りたくて、母に頼まれた品物を親戚のおばさんに渡すと、「ご褒美に」と渡されたお菓子と缶ジュースの入った紙袋を抱え、急いで山道を下って行きました。
家までの道のりを半分ほど歩いた頃です。
「コロン・・・ コロン・・・」
鈴のような音が聞こえてきました。
滅多にないことですが、この辺りでは熊が出ることもあって、山奥で仕事をする人は、熊除けの鈴を鳴らしながら歩くことがあります。
誰かが山を登ってきてるのかな。そう思うと、暗くなっていく山道でひとりぼっちじゃないことに、少しだけ安心しました。
急なカーブを曲がりきったところで、道のずっと先に、鈴の音の主が登ってくるのが見えました。
その姿を見た瞬間、なんだか妙な胸騒ぎがしました。
この時期、この時間帯になると、山の気温は急に冷え込みます。それなのに、視線の先を歩いてくる人は、膝上くらいの短い浴衣のような着物姿でした。
それに、この道を通る人は限られています。知らない人が歩いていることなんて、まずありません。
なのに、少しずつ近づいてくるその人は、明らかにこの辺りの住民ではありませんでした。見たことのない人でした。
初めは道の向こうに小さく見えていた人影も、お互い歩いて進むにつれ、次第に大きくなっていきます。やがて、表情が見えるほどの距離まで近づきました。
「わー、やっぱり知らん人だ」
私は目をそらして、その人をやり過ごそうとしました。でも、道の左側を歩いていた私の進路を塞ぐように、その人はスーッと左側へ寄ってきたんです。
とても怖かったけれど、思い切ってうつむき加減だった顔を上げ、その人の顔を見ました。
年の頃は30歳くらいの、若い男性でした。
浅黒い顔に、ギョロッとした大きな目。汚れた髪を頭のてっぺんに丸く束ね、こけてくぼんだ頬に挟まれた口元には、いやらしい笑み。そこから、黄色く汚れた歯が覗いていました。
目が合った途端、その人は言いました。
「右側においでなさるか? 左側においでなさるか?」
男性とも女性とも、子供とも大人ともつかない、不思議な声でした。
この辺りで会う人は、みんなクセの強い岡山弁を話します。でも、その人は標準語に近い、聞いたことのないイントネーションで話しかけてきました。それが、余計に気味の悪さを掻き立てました。
怖くなった私は、何も答えないまま、道の右側に避けて通ろうとしました。
でも、その人はすぐに、私と同じ方向へ体を寄せてきます。
今度は左へ避けようとすると――
やはり通せんぼするように、左へ避けてくるのです。
よく見ると、その人の着物はとても薄汚れていて、もう何年も洗っていないように見えました。
そう思った瞬間、その人は着物の襟をつまんで引っ張りながら、こう言いました。
「これね。 これ、上等よ。 一番上等よ」
薄気味の悪い声でした。
私はもう、怖くて怖くて仕方がありません。とにかくこの人をかわして道の向こうへ行きたいのに、私が左右どちらに進もうとしても、その都度絶妙のタイミングで、先を塞がれてしまうのです。
恐怖で泣きそうになりながら、私は男の人の足元を見ました。
とても汚れたその足。右足には大きな白い鼻緒の男性用の下駄、左足には赤い花柄の鼻緒がついた、黒い女性用の下駄を履いていました。
それを見た瞬間、その人はまた言いました。
「足? そこの沢でキレーに洗ったんよ。 だからもう沢の水は、飲まんほうがいいよ」
まるで私の考えていることを見透かしているように、心の中で思ったことに、その都度答えてくるのです。
さらに、続けてこう言いました。
「こっちはハマジさんのゲタよ。 こっちはハルミさんのよ」
片足ずつ、差し出すように。
「ハルミさん」は聞いたことのない名前でした。でも「ハマジさん」は、林業をしていた父の同僚で、何ヶ月か前に山の事故で亡くなった人の名前でした。
「コワイよ・・・ どうしよう・・・」
震えながら目に涙を溜めて、なんとか逃げる方法はないかと考えていたときです。
おばさんからもらった紙袋の底が破れて、中の缶ジュースが地面に落ちました。
その人が一瞬、坂道を転がっていく缶ジュースに目をやったその隙に――
私は一目散に、坂道を駆け下りました。
一度も振り返ることなく、家までたどり着きました。
家で待っていた父と母にその話をすると、父は真っ赤な顔で激怒し、大きな鉈を持って男の人を探しに走り出しました。でも、一本道の終わりまで行っても、見つけることはできなかったそうです。
それからしばらく経って、親戚のおばさんにその話をすると、それはこの辺りに昔から住み着く「魑魅(すだま)」という妖怪の仕業だと言われました。
言い伝えによれば、魑魅魍魎の「魑魅」と書いて「すだま」と読むその妖怪は、山林の瘴気――人を病気にさせる毒気から発生する魔物なのだそうです。山中で人を迷わせ、魂を奪う。そう聞いて、私は改めてゾッとしました。
それから半年ほど経った頃です。
家のすぐ脇を流れる、あの綺麗だった沢の水が、上流の砂防ダム工事の影響で、茶色く濁ってしまいました。
あのとき言われた「沢の水は、飲まんほうがいいよ」という言葉は、このことを予言していたのでしょうか。


