埼玉県 横澤翔さん(30代・会社員)の恐怖体験談
*先に<お祝い(表)>を読んでいただくと、この話はもっと味わい深くなると思います。
これは、私自身が体験した話です。
当時、私は職場で後輩のAさんと付き合っていました。社内恋愛が禁止されていたわけではありません。ただ、私自身がそれを周りに知られたくなくて、Aさんにも「会社では絶対に内緒にしよう」と口止めしていました。
いま振り返ると、あの口止めこそが、すべての始まりだったのだと思います。
隠れて付き合うことに慣れてしまった私は、別の後輩・Bさんにも手を出してしまいました。そして、Bさんを妊娠させてしまったのです。
年齢のこともあり、Bさんから強く結婚を迫られました。社内で付き合うことも、まして二股をかけることも、これほど重い形で返ってくるとは思っていませんでした。
覚悟を決めて、私は本命のAさんに打ち明けました。Bさんが妊娠していること、結婚を迫られていること。Aさんにフラれることは、もちろん覚悟していました。
Aさんは最初、少しうつむいて悲しそうな顔をしていました。けれど、すぐに何かを決めたような表情になって、静かにこう言ったんです。
「だいじょうぶ。私が何とかしてあげる」
その言い方は、あまりにも落ち着いていて、まるで、こうなることを最初から知っていたかのような声でした。
翌日、Aさんは会社に辞表を出し、そのまま姿を消し、連絡も取れなくなりました。
一方でBさんとの話はあっという間に進みました。妊娠していることもあって周囲も急かします。気づけば私は籍を入れ、新居に引っ越していました。何もかもが、自分の意思とは無関係に決まっていくような感覚でした。
それから3ヶ月ほどたったある日のことです。
結婚式も披露宴もしていなかった私たちのために、職場の同僚が我が家でささやかなホームパーティーを開いてくれることになりました。
そんな矢先でした。まるでそのことを聞きつけたかのように、Aさんからメッセージが来ました。
入籍してから、私はあえて彼女に連絡をしていませんでした。気まずさもありましたし、恨まれているだろうとも思っていたからです。
届いたメッセージは、たった一言でした。
「私の家で待ってるから」
未練がましくまだ持っていた合鍵を使い、私は彼女のアパートに向かいました。部屋には誰もいません。電気をつけて、彼女の帰りをただ待ちました。
おそらくいい話ではありません。待っている間、まるで内臓が鉛のように重くなった気がしました。
三十分ほど経った頃でしょうか。玄関のドアが開く音がしました。
「ただいま」
そう言って入ってきた彼女を見て、私は言葉が続きませんでした。
長かった髪が、バッサリと切られていたんです。まるで少年のような短さでした。
「ど……どうしたのよ、その髪」
「今日切ったの。儀式のためにね。ほら、これ」
彼女はテーブルの上に、五枚の紙を並べました。「呪」という一文字の下に、見たこともない模様が赤い筆文字で描かれています。
「すっごい強い霊能者の先生に書いてもらったの。会うだけでも紹介制でね、2ヶ月待ったんだから」
そう言って笑うAさんの表情に、私は言葉にならない薄ら寒さを感じ始めていました。
彼女は続けて、かばんの中から小さな袋を取り出しました。中には、切ったばかりの茶色く長い髪が束になって入っています。
「あとね、コレも用意したのよ」
ビニール袋から出てきたのは、黒っぽいペンチでした。
「これでね、爪を剥いで、その爪にこの髪を束ねてヒモで縛って、そこに針を刺して、この御札と一緒に小袋に入れるの。それを、翔くんの家のいろんな所に隠すのよ」
あまりに現実離れした話を、彼女は嬉しそうに、まるで旅行の計画でも話すように語ります。その温度差が、逆に私を怖くさせました。
「先生が言ってたの。『本当に効く呪いには、木と同じで五つの部分が要る』って。根で捕まえて、幹で支えて、枝を伸ばして、葉っぱで気づかれないように広げていくの。……そして最後に、種を残す」
「たね?」
「種さえ生きていれば、他の四つを見つけられて壊されても、また根から生え直せるんだって。だから五つの中で、一番大事なのは種なの」
「ちょっ……待ってよ。それ、何よ! どういう事!」
「自分じゃできないから、翔くん、これで私の爪、抜いて」
彼女はパッケージからペンチを取り出すと、私の目の前に突きつけてきました。そしてテーブルに右手を置き、反対の手でしっかり押さえて身構えました。
「いやいやいやいや! 無理むり無理ムリ! そんなの絶対無理だよ!!」
必死に断る私を、彼女は座った目でじっと見つめて、静かにこう言いました。
「じゃあ、私と一緒に……死ぬ?」
冗談を言っているようには、とても見えませんでした。
彼女はタオルを口にくわえると、頬を紅潮させ、ぎゅっと目を閉じました。左手で右手をしっかり押さえたまま、私の前に差し出して、動きません。
ただ、その肩は小さく震えていました。
彼女の揺るぎない決意に触れて、私も覚悟を決めました。
「わかった……ごめん……行くよ!」
私はペンチを握り直し、渾身の力で、彼女の親指の爪を剥がしました。
「ングッ!!」
くわえたタオル越しに、くぐもった悲鳴が聞こえました。爪が思っていたよりもあっけなく、ズルッと抜ける感触。あの感触は、今もこの手のひらに残っています。
親指の爪を抜き終えると、彼女はタオルを咥えたまま、掠れた声でこう呟きました。
「……根」
奇妙なことに、二本目からは彼女はほとんど声を上げませんでした。まるで痛みそのものが、途中でどこかに抜けていったかのように。それでも一本抜くたびに、彼女は同じように囁くのです。
「……幹」
「……枝」
「……葉」
そして最後、小指の爪を抜いた瞬間、彼女は今までで一番小さな声で、こう言いました。
「……種」
終わったあと、彼女の左手に絆創膏と包帯を巻き、言われるがまま、五つの呪い袋を一緒に作りました。
「これを……俺が部屋の中に隠しておけば良いの?」
そう聞くと、彼女は首を横に振りました。
「そう。でもね、翔くんが隠しちゃダメ。私の爪と髪だから、私が自分で隠さないとダメなの。他人が代わりに置いたものには、根が張らないんだって」
その一言の奥にある、彼女の絶対的な意思のようなものを感じました。
「あ、それと」
出かける間際、彼女は思い出したように付け加えました。
「『種』だけは、一番風の当たらない、家の芯に近いところに隠すようにって言われてるの。他の四つが見つかっても、『種』だけは見つからないようにしないとダメなの」
その言葉の意味を、私はこのときまだ理解していませんでした。
翌週、ホームパーティーの日がやってきました。同僚たちで賑わう部屋の中、Aさんはごく自然な動きで、談笑しながら移動しては、呪い袋を一つ、また一つと隠していきました。棚の裏、カーテンレールの上、洗面所の換気扇の中……
――この後、一体どうなるんだろう――
そう思いながらも、私にはどうすることもできませんでした。
翌日、自室を片付けていると、リビングから妻の悲鳴が聞こえました。駆けつけると、早速一つ目の呪い袋が見つかってしまっていました。妻は真っ青な顔で、テーブルの上に出した呪い袋の中身を見て、震えていました。
「これ……何?……誰がこんな……」
言いかけて、妻はハッと何かに気付いたようでした。
「きっとまだあるから!」
妻にそう言われ、私は一緒に探すフリを続けました。押し入れの奥、本棚の隙間、換気扇の中。妻だけが着々と呪い袋を見つけていくたびに、妻の顔色はどんどん悪くなっていきました。
見つかった袋を開けてみると、爪と髪の他に、紙片が一枚ずつ入っていました。「根」「幹」「枝」「葉」。
見つかったのは、結局、四つだけでした。
こういう時の女性の勘というのは、恐ろしいほど鋭いものです。パーティーにAさんが参加していた時点で、何か違和感を感じていたそうです。「あの人が近くを通った場所だけ、空気が重かった」と。
犯人はAさんしかいない、と妻はすぐに確信し、問い詰められた私は交際していた事実まで白状させられました。
その後は二時間以上、正座をさせられたまま、こっぴどく叱られました。
ですが、妻が見つけた呪い袋は、全部で四つ。儀式で作ったのは、五つです。
見つかっていないのは、五つの中でいちばん重要だと彼女が言っていた、「種」。
あの日の彼女の言葉が、ようやく分かった気がしました。根も幹も枝も葉も、見つかって壊されることが前提の、いわば囮だったのだとしたら。本当に大事な一つだけを、家のどこか誰にも触れられない場所に、静かに隠すために。
もちろん、Aさんはその場所を教えてくれません。あの日以来、電話は繋がらず、メッセージも既読すらつかなくなりました。かつての同僚に聞いても、「引っ越したらしいよ」というだけで、それ以上のことは誰も知りません。
ただ、Aさんは去り際に一言、私にこう言ったのです。
「その時が来たらまた連絡するね」
最近、和室の畳の縁に、小さな双葉が落ちているのに気づきました。
畳の下から、何かが芽を出したのでしょうか。
そういえば、ふと思うことがあるんです。
「祝う」という字と、「呪う」という字って──少し、似ていませんか。


