神奈川県 飯田亮介さん(30代・会社員)の学生時代の体験談
冷蔵庫の下から出てきた、一枚の白い布。
あれをただの雑巾だと思ってしまったことを、私は今も、少し悔やんでいます。
今から10年ほど前のことです。
当時、学生だった私は、時給の高さに惹かれて、葬儀場でアルバイトをしていました。
葬儀場のバイトといっても、私の仕事は机や椅子の用意といった、会場のセッティングが中心です。 ご遺体を直接見たり、関わったりすることは、ありませんでした。
その日、最後の式が終わって片付けを済ませ、家路についたのは、夜10時を回った頃でした。
家に着いて台所に向かうと、テーブルの上に、母が用意してくれた夕飯が置いてありました。
電子レンジで温めて、冷蔵庫から飲み物を出そうとしたその時。
疲れていたせいでしょうか、うっかり惣菜の入れ物を落として、中身を床にぶちまけてしまいました。
「うわ〜、やっちゃったよ……」
がっかりしながら、飛び散った惣菜をティッシュで拾い集めていると――
冷蔵庫の下に、何か白っぽいものが落ちているのが見えました。
掃除用のハンディーモップで引っ張り出してみると、意外にもキレイで真っ白な、ハンカチより一回り大きな、正方形の布でした。
「どうせこんな所に落ちてる布だし、雑巾だろう」
面倒くさかったこともあって、私は勝手にそう判断しました。
その布で惣菜のこぼれた床を拭き、洗いもせずに、そのままゴミ箱へ捨ててしまいました。
食事と入浴を済ませてベッドに倒れ込むと、私はすぐに眠りに落ちました。
どれくらい眠っていたでしょうか。
なんとなく目が覚めて、時間を確認しようと目を開けました。
そのとき、顔の上に何かが被さっていることに気づきました。
「ん? 布団かな」
そう思いながら手をやって確かめると――
一枚の、布でした。
「これ……冷蔵庫の下にあった、あの白い布だ」
急に、怖くなりました。
顔の上の布を払いのけて、床に投げ捨てました。
薄暗い部屋の中央に、パサッと落ちたその布は、ぼんやりと白く浮かんで見えました。
「何だよ、これ……夢か?」
なんとも言えない胸騒ぎがして、私はその布を、じっと見つめ続けていました。
すると。
床の下から、何かに押し上げられるように、布が少しずつ、浮き上がっていったのです。
布を押し上げていたのは――
人の、髪の長い女の顔でした。
真上を向いたその女は、顔に白い布を乗せたまま、直立したまま少しずつ、ズルズルと床からせり上がってきました。
顔。首。肩。胸。腹。腰。足。
着ているのは、真っ白な死装束でした。
女は、顔の布を乗せたまま、ゆっくりとその顔を傾けて――
ベッドの上の、私のほうへ向けました。
部屋の出口は、その女の向こう側です。
逃げようにも、逃げられません。
私はその場で、ただじっと、布に覆われたその顔を見ているしかありませんでした。
その時。
女の顔を覆っていた布が、ふわっとめくれました。
真っ赤な口紅をひいた口元が、薄ら笑いを浮かべながら――
動いたのです。
「……キョウ……ヤカレタノ……」
情けない話ですが、その瞬間、私は気を失いました。
気づいたときには、朝になっていました。
部屋の中を探しても、あの白い布はどこにもありませんでした。
でも、あのかすれた声だけは、今でも鮮明に耳に残っています。
不思議なことに、前の晩、惣菜を片付けるときに雑巾代わりに使ったはずの布も、ゴミ箱から消えていました。
翌週、バイト先で先輩にその話をすると、こう教えてくれました。
私が見たあの白い布は、「顔かけ」や「打ち覆い」と呼ばれる、亡くなった方の顔にかける布ではないか、と。
時給が良かったので、しばらくそのバイトは続けました。
でも、あんな経験をしたのは、あの一度きりです。
あの女性が、一体誰だったのか。
なぜ、私にあの言葉を伝えようとしたのか。
今でも、まったくわかりません。


