千葉県 八巻健一さん(60代・アルバイト)の恐怖体験談
これは、私が定年退職してからしばらく経った頃の話です。 長年仕事一筋で生きてきた私には、これといった趣味もなく、有り余る時間をどう過ごせばいいのか、正直、途方に暮れていました。 そんな私が始めたポスティングのアルバイトが、まさかあんな体験につながるとは、思ってもみなかったんです。
40年近く、がむしゃらに働き続けてきました。ですが、いざ定年退職してみると、これといった趣味もありません。かといって、今さら何か新しいことを始める気力も湧かず、ただ退屈な時間だけが、ゆるゆると過ぎていく毎日でした。
「このままではいけない」
そう頭では分かっていても、なかなか行動に移せません。走るのは苦手だが、ウォーキングくらいならできるだろうか――そんなことを考えるばかりで、何一つ実践しないまま、時間だけが過ぎていきました。
そんなある日、何気なく目を通していた新聞の求人広告に、こんな一文を見つけたんです。
「定年退職後の臨時収入に! お散歩がてら、ポスティングでお小遣いを!!」
何とも魅力的な提案に思えました。
ただ歩くだけでは一銭にもなりません。それに、私のことですから、きっとすぐに飽きて辞めてしまうでしょう。でも、ポスティングなら、これはれっきとした「仕事」です。嫌になっても、途中で放り出すわけにはいきません。おまけに、健康にも良さそうです。
考えてみれば、40年間働き詰めだった私に残っているものといえば、仕事に対する責任を貫き通す、その一点くらいのものでした。
家内に相談してみると、退職後、まるで抜け殻のようになっていた私を、随分心配してくれていたようです。アルバイトをすることには、大賛成してくれました。
翌日、早速求人広告の会社に電話をしました。まずは電車で2駅ほどの雑居ビルまで履歴書を持参し、10分ほどの簡単な質疑応答を受ける必要があるとのことでした。
その日のうちに面接を終え、あっさりと登録完了。帰りに動きやすいジャージと運動靴を買い込み、準備万端で最初の仕事を待ちました。
仕事内容は至って単純です。自宅に郵送されてくるポスティング用のチラシを、期限内に近隣の住宅へ配って回る。ただ、それだけです。
面接からわずか2日後、5000枚ほどのチラシが自宅に届きました。
さすがにかなりの量です。期限内に配りきれるだろうかと不安がよぎりましたが、「いざとなったら私も手伝ってあげるわよ」という家内の言葉に背中を押され、早速その日からポスティングを始めました。
幸い、我が家は住宅街です。初めての割には順調に数をこなせました。ただ、同じ家に連日同じチラシを入れてはいけないというルールがあり、2日目、3日目と、次第に足を延ばす範囲が広がっていったのは、少々予想外でした。
それでも5日間で5000枚のノルマを達成。初めてにしては、上々の滑り出しでした。
あまり間を空けると気持ちが萎えてしまう気がして、私はすぐに次の仕事を依頼しました。
数日後、今度は6日分、前回より少し多い8000枚のチラシが届きました。
「今度は配る範囲を、少し広げないと駄目だな」
そう考えたとき、ふと頭に浮かんだのが、前回は足を運ばなかったN町の団地でした。
N町は自宅から徒歩20分ほど。古い団地群を中心に、商店街やアパート、一軒家が立ち並ぶ、昔ながらの住宅地です。
最近のマンションは、ポスティング禁止の張り紙どころか、「許可なくエントランスに侵入した場合は直ちに警察に通報します」などという、物々しい張り紙まで貼られていることが少なくありません。なかなか思うようにいかないのです。
でも、あの団地なら話は別です。確か1階に集合ポストがあり、周りには古いアパートも多い。ポスティングにはうってつけの場所でした。
前回そこに行かなかったことを少々後悔しながら、その日はいつもより多めにチラシを持って、N町へと向かいました。
団地の敷地に入り、A号棟、B号棟、C号棟と、順調に配り進めていきます。手持ちのチラシは、みるみるうちに減っていきました。
「もう少し多めに持ってくるべきだったかな……」
そんなことを考えながら、最後のJ号棟にたどり着きました。
左上の501号室から、502、503と順番にポストへ入れていきます。
ところが――
401号室のポストだけ、様子が違いました。
まるでチラシを入れることを拒むかのように、グニャッとした、押し返すような抵抗があったんです。
長期間不在の家だと、ポストに郵便物がぎっしり詰まっていて、チラシが入りにくいことは時々あります。でも、それとは明らかに違う感触でした。何とも言えない、妙な手応え。
ポスティング歴わずか数日の私が言うのもおこがましい話ですが、この仕事はスピードが命です。入らなければ、すぐに諦めて次へ進むのが当然の流れです。
それなのに、なぜか私は、その違和感の正体を確かめたくなってしまったんです。
あまり褒められた行為ではないと分かってはいました。それでも、指先でポストの口をそっと押し開け、中を覗き込んでみました。
すると――
真っ暗な闇の中で、2つの目が、こちらを睨みつけていたんです。
その目は、ゆっくりと瞬きをしました。
チラシのデザインなんかじゃない。それだけは、はっきりと分かりました。
かなり化粧の濃い、女性の目でした。場末のバーのママさんを思わせるような、そんな目でした。
あの目は、今でも脳裏に焼き付いています。
私は生まれて初めて、仕事を途中で投げ出しました。残りのチラシを抱えたまま、慌てて家路につきました。
今でも月に数日、ポスティングの仕事は続けています。ただ、あの日以来、あの団地のJ号棟だけは避けるようにしていますし、投函の際に少しでも抵抗を感じたポストは、迷わず飛ばすことにしています。


