石川県 石井香織さん(20代・会社員)の恐怖体験談
3歳の息子が、覚えのない歌を口ずさむようになったのは、あの県営住宅に住み始めて、少し経った頃でした。
今から3年ほど前のことです。
私はシングルマザーで、当時3歳の息子と2人暮らしでした。
離婚の原因はさておき、少しでも子供との生活を安定させたくて、離婚後すぐに県営住宅への入居を申請したんです。
ちょうどその頃、同じ市内に大規模な県営アパートが完成したところで。 母子家庭の優遇措置もあって、幸運にもすぐに入居することができました。
その土地は、もともと小学校の跡地でした。 戦前から続く、歴史のある学校だったそうですが、少子化の影響で廃校になったのだと聞きました。
入居から数日後、お隣と真上の部屋に、新しく越してきたご家族がご挨拶にいらっしゃいました。
聞けば、偶然にも2家族とも、うちと同じ3歳の子供を持つシングルマザーで。 これから通う保育園まで一緒だというんです。
私たちはあっという間に意気投合しました。
これが偶然なのか、役所の割り振りのおかげなのかはわかりません。 でも、似た境遇のママ友というのは、シングルマザーにとって本当に心強くて。 私はまるで戦友に出会ったような気分でした。
お隣のYさんは、男の子と2人暮らしの、私より4つ年下の若いお母さん。
上の階のFさんは、私より少し年上で、かわいい女の子と暮らす、しっかり者のお母さんでした。
それから1週間ほど経った日のことです。
この日は、息子の「慣らし保育」の最終日でした。 夕方6時のお迎えまで、初めて親の付き添いなしで過ごさせる日です。
もともと物怖じしない性格の息子は、上機嫌で私を待っていました。
「お友達とも楽しく遊んでいましたよ」
保育士さんのその一言に、私はホッと胸をなでおろしました。
数日遅れて慣らし保育を終えたYさんの息子さんと、Fさんの娘さんも、仕上がりは上々。 まずは第一段階の試練を、3人揃って乗り越えたところでした。
それからさらに、3ヶ月ほど経った頃です。
保育園から連れて帰った息子が、居間で何かの歌を歌っていました。
「テレビでも見ながら歌ってるのかな」
そう思ったんですが、テレビの音は聞こえてきません。
キッチンから首を伸ばして居間の奥を見てみると――
息子は、背筋と指先をピンと伸ばして、気をつけの姿勢のまま、少し上を見上げるようにして、何かの歌を一生懸命歌っていました。
「おーにのー・めにたぁたたったぁー えーたぁしゃんのぉー おたででしゅー」
歌詞の意味はわかりません。 でも、直立不動で一心不乱に歌う姿があまりに可愛くて、私は思わずスマホで動画を撮ってしまいました。
歌い終わって満足げな息子に、
「それ何のお歌? 保育園で習ったの?」
と聞いてみたんですが、照れくさそうに体をよじるだけで、その時は答えてくれませんでした。
数日後の休みの日、私の家でYさん、Fさんとママ会をすることになっていました。
最近、定例のようになりつつある集まりです。
談笑の中で、先日の息子の歌を思い出して、撮った動画を2人に見せました。
「あー、これウチの子も歌ってる!」
Yさんが、すぐに反応しました。
「保育園で習ったのかな? こんな歌知ってる?」
私が聞くと、Fさんが首をかしげます。
「えー、知らなーい。何て歌だろうね?」
その日は、子供たちの歌ネタで、話が盛り上がって終わりました。
それからまた何日か経った日、偶然お迎えの時間が重なったFさんが、あの歌について、こんなことを言いました。
「ねぇ、あの歌さぁ、何かおかしくない?」
「歌が? 何か変?」
「私、あのあと気になって、娘の歌、よーく聞いてみたのよ。そしたらね、『ヘイタイさんのおかげですー ヘイタイさんよありがとうー』って歌ってるんだよ」
Fさんの娘さんは女の子で、うちの子より月齢も上。言葉も滑舌も、しっかりしています。
「えー、ほんとに? 今どきそんな歌、保育園で習うの?」
すぐにFさんと一緒に、保育園の先生に聞いてみました。
でも、そんな歌は知らないし、教えてもいないとのことでした。
「子供って不思議だなぁ」
そう思いながら、息子を自転車に乗せ、Fさんと家路につきました。
Fさんと別れて家に入り、買い物袋の中身をキッチンで整理していると――
また、息子があの歌を歌い始めました。
「へーたぃしゃんのぉーあにまとおー へーたぃしゃんにょぉーあにまとおー」
耳を澄ませてよくよく聞くと、確かに「ヘイタイサン」「アリガトウ」と言っているように聞こえます。
夜、息子が寝たあと、私は歌詞をネットで調べてみました。
それは、戦時中に歌われていた「兵隊さんよありがとう」という歌でした。
肩を並べて兄さんと 今日も学校へ行けるのは 兵隊さんのおかげです お国のために お国のために戦った 兵隊さんのおかげです
夕べ楽しいご飯どき 家内そろって語るのも 兵隊さんのおかげです お国のために お国のために傷ついた 兵隊さんのおかげです
寂しいけれど母さまと 今日もまぶかに眠るのも 兵隊さんのおかげです お国のために お国のために戦死した 兵隊さんのおかげです 兵隊さんよありがとう 兵隊さんよありがとう
その週末、Fさんの家でママ会がありました。
仕事の都合で久しぶりに会った3人の話題は、自然とあの歌のことになりました。
「そうそう、あのあと、あの歌のこと、ネットで調べたのよ。そしたらね……」
私がそう切り出したとき、Yさんの表情が、少し暗くなった気がしました。
でも、それより早く、Fさんが食いついてきました。
「え? なになに? どうだった? どうだったの?」
その勢いに押されて、私はそのまま話を続けました。
「あの歌、『兵隊さんよありがとう』って歌でね。戦時中は、みんな歌ってたらしいよ」
「ちょっと、気持ち悪いね……どこで覚えたんだろう。子供たちに聞いてみようか」
Fさんの提案で、3人の子供を呼んで、聞いてみることにしました。
「ねぇ。『ヘイタイさんよーありがとう』のお歌って、だれに習ったの?」
Fさんの娘さんが、真っ先に答えました。
「おともだち! みーんなうたえるよ!」
「おともだちって? 保育園のお友達?」
Fさんが聞き返すと――
3人は声を揃えて、こう言いました。
「ちがうよ! おウチにいるおともだちー!」
それを聞いた瞬間、私とFさんは思わず顔を見合わせました。
腕をさすりながら黙っていると、それまで沈んだ表情だったYさんが、ぽつりとつぶやきました。
「……やっぱり……そうなんだ……」
「『やっぱり』って? どういうこと?」
Yさんが、ゆっくりと話し始めました。
先週の深夜1時頃、寝ていた息子さんが突然起き上がり、部屋の壁に向かって走っていったそうです。
そして、宙を見つめたまま、指先までピンと伸ばして気をつけの姿勢を取り、急にあの歌を歌い始めたと言うのです。
Yさんは、寝ぼけているんだろうと思って、声をかけようとしました。
でも、その時――
息子さんの周りに、戦時中に着るような服装の子供たちが、何人も、何十人も。
同じ方向を向いて、整然と並んで。
一緒に、あの歌を歌っているのが見えたそうです。
「……だからもう……この家では暮らせないと思ったの……」
青い顔をして、うつむきながら話すYさんに、私たちは、かける言葉が見つかりませんでした。
それから数日経ったある日、Yさんは平日の昼間、私たちに何も言わないまま、引っ越していきました。
その後、Fさんも引っ越すと言い出しました。
ママ友を失いたくなかった私は、
「もっと学年が上の子はそんなことないって言うし、もうちょっと様子見たほうがいいって」
そう説得したんですが、結局2ヶ月ほどで、Fさんも引っ越してしまいました。
正直、私にも息子にも、これといった実害はありません。
何より、家賃が安いのは、このアパートに住む絶対的なメリットです。
私は3年経った今でも、小学生になった息子とここに住み続けています。
最近、息子はもう、あの歌を歌わなくなりました。
歌のことも、覚えていないようです。
先週、新しく入居してきたご家族が、3歳くらいのお子さんを連れて、挨拶にいらっしゃいました。
もし、あの子があの歌を歌うようなことがあったら――
「そのうち歌わなくなるから大丈夫よ」
そう、アドバイスしてあげようと思っています。


