岡山県 藤井美江さん(50代・農業)の不思議な体験談
蔵の奥から出てきた、一枚の古いお面。
それを見つけてから、うちの主人は、少しずつ変わっていきました。
私が、農業を営む主人のもとに嫁いだのは、今から8年前のことです。
主人は古くから続く農家の3代目で、私とは同じ小学校の同級生でした。
結婚を機に、主人のご両親とお祖父さんお祖母さんが暮らす母屋の隣に新居を構えて。 その後、2人の子供にも恵まれ、仕事と子育てに追われながらも、それなりに幸せな毎日を送っていました。
大きな母屋の裏手には、かなり古くて大きな蔵があります。
中には古い農機具が少し置かれているだけで、普段は誰も出入りすることはありませんでした。
ある日、不要になったストーブを片付けに蔵へ入った主人が、何やら古い箱を、嬉しそうに抱えて出てきました。
ホコリで真っ白になった蓋にふうっと息を吹きかけて、手で払って開けてみると――
中から出てきたのは、黒光りする狐のお面でした。
近くにいたお義父さんに聞いてみると、舞台やお芝居で使う「咥え面」というものだそうです。 昔は、お祭りでこれを被って踊る人がいたんだとか。
私たちが生まれる頃までは、この辺りでも、近くの神社で盛大な祭事が催されていたそうです。 でも過疎化が進んで、年々規模が縮んで。かつてたくさんいた氏子も減って、今ではもう、太鼓の叩き手も踊り手もいなくなってしまったといいます。
咥え面というのは、能楽なんかで早変わりをしたり、手を使わずに装着できるように、裏側に木の出っ張りが付いたお面のことだそうです。
手に取ってよく見ると、裏側の木の出っ張りに、以前使っていた誰かの歯型が、うっすら残っていました。
それを、あろうことか主人が咥えようとしたので、
「やだ! 汚い! やめて!」
私は全力で止めました。
それでも主人は嬉しそうに、
「ウチの玄関に飾ろうよ」
なんて言うんです。
でも私はなんだか気味が悪くて、蔵の中に戻してもらうよう、主人に頼みました。
その日の夜のことです。
真夜中、主人が布団から這い出して、部屋を出ていきました。
時計を見ると、12時を少し回った頃でした。
「トイレかな」
そう思った私は、翌朝も早いので、そのまま眠ってしまいました。
ふと、目が覚めました。
隣を見ると、主人がまだ戻っていません。
時計は、夜中の2時過ぎ。
「具合でも悪いのかな」
少し心配になって起き上がり、トイレやキッチンを見て回りましたが、どこにもいません。
「もしかして」
そう思って蔵のほうへ行ってみると、少しだけ開いた戸の隙間から、薄く光が漏れていました。
近づいていくと、聞こえてきたんです。
「ピーヒャラ ドンドコ チンチキ シャンシャン ピーヒャラ ドンチキ シャン……」
祭りばやしのような音でした。
「まったく……こんな夜中に何してるの」
イライラしながら、戸の隙間からそっと中をのぞきました。
目に飛び込んできたのは、異様な光景でした。
天井から真っ直ぐに落ちるスポットライト。 その光の中で、主人が、踊っていました。
蔵の中に、そんな照明があるはずないんです。
しかも、主人はあの黒狐の面を被って、見たこともない着物を着て――
軽やかに、舞っていました。
クルクルと回転して。 流れるように手足を操って。 かと思うと、急に宙返りしたり。
言っておきますが、主人は100キロ近くある大柄な人です。 体が大きいだけで、スポーツとも踊りとも無縁の人でした。宙返りなんて、できるわけがないのです。
その主人が、目の前で……
まるで体操選手か、フィギュアスケートの選手みたいに、クルクルと宙返りをしながら華麗に踊っているのです。
スポットライトの外の暗闇には、小さな人影がいくつも見えました。 楽器を奏でている影。 手拍子をしている影。
そのすべてが、主人を取り囲んでいました。
あまりにも軽やかで、鮮やかで、美しくて。
私は夢を見ているような気持ちになって、しばらく、ただ見入ってしまいました。
「あ……スマホ、持ってくれば良かった」
そう思って、一度家に戻ろうかと考えた、その瞬間でした。
お囃子が、止みました。
静寂の中、主人は踊りをやめて、おもむろに何かを喋り始めました。
「コノ ノチモ ヨク コノ クニヲ オサムラネバ ナラヌゾ ヨク オサムラネバ ナラヌゾ」
「あれ……?」
咥え面を咥えているはずなのに、どうしてあんなに、はっきりと喋れているんだろう。
不思議に思いながら見ていると、主人は同じセリフを何度か繰り返しました。
そして、スポットライトの明かりが、スーッと消えました。
「まずい。こっちに来る」
私は一目散に家へ走って戻り、布団に潜り込んで、寝たふりをしました。
主人が戻ってくるのを待つつもりが、いつの間にか、本当に眠ってしまいました。
翌朝、目が覚めたのは、隣で寝ていた主人の叫び声でした。
「なんなら! こりゃ!」
主人の足も、布団の足元も、泥で真っ黒に汚れていました。
「こりゃ……どねぇなっとるんなら……ちょっと濡れ雑巾か何か、持ってきてぇや」
そう頼まれて雑巾を絞りながら、昨日のことを話そうかとも思いました。
でも、なんとなく、今はその時じゃない気がして、結局、話さずにいました。
その後、主人は何を思い立ったのか、ある日突然、町議会議員に立候補して、当選しました。
今では、
「県議会に出て、いずれ国政をやる」
と息巻いています。
もともと、そんなことを言うタイプの人ではなかったんですけどね。
もしかして、あの夜のことが、何か関係しているんでしょうか。
ちなみに、あの黒狐のお面は、今もリビングに、大切に飾ってあります。


